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面接や営業で表現するというのは 3

表現することについての雑文3


 そもそも表現するとはどういうことなのか、ということを「表現するというのは 1」に書きました。そして、表現の中でも面接や営業の場面における「身体的表現」の前置きとして、「靴」のことを「表現するというのは 2」に書きました。今回の「その3」では身体的表現の続きを記述します。


・面接や営業における足もと


 足もとの中でも一番下にある「靴」については、前回の記述の通りです。では、その靴を履いた足の向きで何を表現することになるのでしょうか。
 
 面接や営業の場面で、座った時に、足の向きおよび開き具合についてはきちんと意識しておくほうが良いと思います。足のつま先は、相手の方をまっすぐ向いているのがよいそうです。そして男性であれば膝とひざの間が軽く開いている程度、女性であれば膝とひざを合わせて閉じているほうがよいそうです。

 つま先の向きが、自分から見てカタカナのハのように「ハの字(はのじ hanoji)」状態は、いわゆる内またと言われる状態です。良いか悪いかということで考えれば、特に良くも悪くもないと思います。だってその人の座り方なんですから。きっと長い人生のなかでつま先がハの字になる座り方が、その人の肉体にとってはとても楽で、いつの間にかその人の肉体に沁みついてしまっているのだと思います。もしかしたら、整骨や針灸の方々からみると「骨盤が~」「脚の骨が~」などと、さまざまなデメリットが見えるのかもしれませんが、このブログの筆者の個人的な感想でいえば、ハの字について、善も悪もありません。

 ところで、整骨の人は整体師、針灸の人はハリ師だと思っていたらそうではないようですね。整体師というのは民間資格で、「柔道整復師」というのが国家資格のようです。ハリも「はり師」と「きゅう師」という2つの国家資格に分かれているそうです。さらに、「あん摩マッサージ指圧師」などというのもあって、複雑ですね。

 ハの字に善や悪が無いのであれば、別に気にしなくていいじゃないか、内まただっていいじゃないか、と思われるかもしれません。それはそうです。その通りです。でも、面接や営業の場面で、となると異なる意味合いが生じるかもしれないことを気を付けた方がいいのではないかなと感じるのです。つま先がハの字、つまり、内また、というのは一般的にどのような状況になっているときをイメージするでしょうか。

 一般的に、という言い方は難しいですね。社会通念的に、もしくは比較的多数の共通認識として、という言い方の方がいいのかもしれません。あるいはこのブログの筆者の個人的な思い込みというのが正解かもしれません。

 おびえているときに、内またになりやすい、というイメージはないでしょうか。怯えて腰が引けている、という状態です。足を肩幅に開いて、足のひら(足のうら、です。手のひらと同じ雰囲気のフレーズで、足のひら、と書いています)が地面についた状態で、腰を引くと、ひざや骨の構造的に、おそらく、内また、の方が腰を引きやすいのです。いろいろなアニメーションでも、「怯え」の表現として、この腰を引いた内またの状態を使用していると思います。猫のTとネズミのJが追いかけっこをして、バタバタしつつ、仲のいいあのアニメでも、よくこの表現を使っています。猫型兼人型自動機械が活躍するあのアニメでも、眼鏡をかけた小学5年生のNびNびた君も、よくこのような腰と足の形になります。

 つまり、両足のつま先が内側を向いていると、「内またに見える」→「怯えているようなイメージ」→「気が弱いのかな」→「自信がないのかな」という無意識のイメージを相手に持たれてしまっているかもしれない、ということです。逆の言い方をすると、自分には自信がないんですよ、ということを、知らず知らずのうちに表現してしまっているかもしれない、ということです。実際に自信があるかどうかは一切関係なく。

 補足ですが、一般的に、あるいはこのブログの筆者の個人的な思い込みかもしれませんが、女性は比較的内またの人が多いような気がします。女性が内またになる要因としては、スカートを履くことが多いので、見えてはいけないから足を閉じておくという服装的な背景の他に、日本であれば以前は着物(kimono)を着用していたため、足を閉じておくのが女性としての身だしなみになっていたという背景もあるかと思います。さらに、出産に対する骨盤の形と大たい骨のつながり方などの物理的な要因もあるかと思います。

 このように、女性の「内また」と、先に述べた「おびえている」というイメージは、まったく別々の由来のものだと思うのですが、それが女性においてひとつにミックスされたときに、「はかなげで美しい女性のやわらかな雰囲気」というイメージを喚起させるのではないかと推測します。内またに対してそのようなイメージを持っているという前提で、目の前の男性が内またで座っていた場合、「はかなげで美しい女性のやわらかな雰囲気」をその男性に重ねてしまうため、いわゆる一般的な「男性のイメージ像」という前提とミスマッチをおこして、違和感を感じさせるのではないかと思われます。(ここで言う男性のイメージというのも、一般的にというか、このブログの筆者が思うところの一般的というイメージですので、そう思われない方もあるかと思いますのでそのような場合はご容赦ください)。

 この違和感にはメリットもデメリットもあります。デメリットとしては、面接官がイメージのミスマッチによる違和感を無意識に感じていた場合、足もととは何の関係もない受け答えの内容(たとえば志望動機や目標など)に対しても、その違和感を差し込んでしまうという可能性が考えられます。人の脳は思いもよらない場所から思いもよらない情報をひっぱり出してきて統合しますからね。そうすると、あなたの前途有望な志望動機の中に、「おびえている」という匂いを、不必要に嗅ぎ取ってしまい、面接官の判断に影響する、という可能性もなきにしもあらずなのでは、と思います。
 
 メリットは、その「やわらかな雰囲気」のほうを出したいときに効果的だということです。これはブログの筆者がある時、気がついたことなのですが、取引先との打ち合わせの際に、相手が「押しの強い」タイプや「意見の強い」タイプだった場合に、自然と、自分が内またに近い座り方をしていたのです(!)。まあ、たぶん、おびえていたんでしょうね。しかし、その後、お互いに足もとが見える椅子(応接セットのソファーなど)に座っている場合には、相手が「押し」のタイプの場合に、こちらは「引き」ですよ、「わたしはやわらかい雰囲気ですよ」、「だからあなたとはうまく呼吸をあわせて仕事ができますよ」と無意識の領域にアピールするために、あえて、内またに近い姿勢をとっていたこともあります。それが、功を成したのか、逆効果だったのかは、その相手に聞かなければ分かりませんが。

 内また(ハの字)に対して、外また(逆ハの字)になっている場合はどうでしょうか。ここまでの文章内容から逆算して、カシャカシャと電子卓上計算機的イメージではじき出した結果、内またとだいたい逆の効果を想定していただけるのではないでしょうか、と想定して、簡略的に進めます。

 おそらくは「オレ強いんだぜ」「オレは面接官のお前よりもすごいんだぜ」「オレはものすごく自信があるぜ」ということを、表現してしまっている可能性がある、と思います。あなたが本当にそう思っているかどうかにはまったく関係なく。もちろん、それがとても効果的な場面もあるでしょうし、デメリットとなってしまう場面もあるでしょう。面接や営業という場面においては、おそらくデメリットの可能性が高いのではないだろうかとこのブログの筆者の個人的な感想としては、そのように思われるのです。

 今回でようやく、前回書きたかった「足もと」のことを書き終えました。しかし、少し長くなってしまったので、外またのところはだいぶ簡略的になってしまいました。

 次の「その4」では、身体的表現の続きで、「手」に進みます。その前に、「くつ下」を書き忘れたので、おそらく、「くつ下」の記述が終わったら、「手」に進むと思います。

2017.2.11 him&any

©2017 him&any

コメント

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ASKA「止まった時計」

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わりとスローテンポなバラード(?)であるが
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ちなみにイントロがけっこう長くて
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タガがはずれる・ハメをはずす・ハネをのばす 比較

◆前置き
 自由詩「夢の中の配役」の中で、「理性のタガがはずれる」という言い方をしたときに、同時に浮かんだ3つの表現について比較してみます。

 3つの表現とは、タガがはずれる、ハメをはずす、ハネをのばす、です。

 あくまでも個人の感想です。語源の検証や、用例の正確さを保証する内容ではありません。あくまでも個人の感想ですので、例えばテストで、この3つの表現について意見を述べよ、という問題が出て、このブログを参考に答案を書いて、不正解だったとしても、責任は負えません。先生に、him&anyのブログにそう書いてあったのに、と言ってもおそらく効果はありません。むしろ逆効果かもしれません。ご注意ください。


◆タガがはずれる
 漢字だと、箍が外れる、と書くようです。こんな漢字だとは知りませんでした。日本語を勉強中の皆さん、この漢字を知らなくても、少なくとも数十年は問題なく日本で生活できることが今ここで証明されたので、ご安心ください。

 意味は、しめつけや枠組みがなくなることのようです。ひつじ牧場の、囲いの柵がなくなるようなイメージですね。ひつじ達はどこにでも行くことができます。

 理性のタガがはずれる、ということは、理性によるしめつけや枠組みがなくなる、ということです。理性にしめつけられているのは本能ですね。本能が自由に振る舞うことができる、という意味になります。

 本能が自由に振る舞うということは、つまり、自然、ということでしょうか。いわゆる社会的規範や常識的行動、あるいは公序良俗といったものにとらわれない、ということになります。

 「あいつはタガがはずれちゃったんだよ」なんて言うときは、何かの原因があって、振る舞いに良識を感じられなくなる、という意味になります。

 でも、人間の「自然」って、本能が自由に振る舞うだけではない気がします。本能もあり、理性もあるというのが現在の人間の脳の構造であるなら、どちらも有効に機能できている状態が、自然、なのかもしれません。


◆ハメをはずす
  漢字だと、羽目を外す、と書くようです。ただ、もともとは「馬銜」と書いたようです。「馬銜」というのは、馬の口に噛ませて馬の動きを制御するものだそうです。「馬銜」は「ハミ」とも「ハメ」とも読むそうです。そこから、「羽目」の漢字をあてることになったそうです。

 もともとの「馬を制御する」という意味から分かるように「羽目を…

TuneCore Japan で 「LinkCore」 というサービスが始まった

「TuneCore Japan」 で 「LinkCore」 というサービスが始まった。

「LinkCore」とは
TuneCore Japanから配信しているリリースについて
すべての配信先をひとまとめにリンクしたサービス、ということだ。

詳細はこちら→ LinkCore

実際のLinkCoreの画面は
上にシェアボタンと曲のジャケットがあり
その下に配信されているサービスへのリンクが並んでいる。

とても見やすい。

これは確かにとても便利だ。
これまでは個々の配信先のリンクをツイッターに載せたりしていたが

この「LinkCore」を使うと
いちどにすべての配信先を紹介することができる。

このサービスの何がすごいかというと
「こういう機能があったらいいのになあ、と明確には
意識していなかったものの、無意識に何となく求めていたものを
サービスとして具現化したところ」
だと思う。

実際、このサービスがなくても、TuneCoreの中の
アーティストページのURLを貼っておけば、
そこから、各配信楽曲の配信先のサイトのロゴをクリックすることで
配信先に飛ぶことはできた。

しかしながら、「LinkCore」という「サービス」として
機能させることで、「聴いてもらうための作業」の中の
ワンステップの簡略化に成功していると思う。

配信する側としては「シェアする」のボタンひとつでシェアができる。
宣伝が楽になる。これは確かに簡略化だろうと思う。

聴く側としては、シェアされた画面の中から自分が利用している
音楽サービスを選択することで聴くことができる。
これもナイスアイデアだと思う。

とはいえ、
「LinkCore」と「アーティストページのURL貼り付け」では
聴く側の作業回数自体は実は変わっておらず、
「アドレスをクリック」→「音楽サービスへのリンクをクリック」
という2回の作業が必要になる。

(あれ?簡略化してないじゃない?)

(と、今、思ったので、もう少し理屈を述べることにする。)


「アドレスをクリック」した際に目にする画面で
「ああ、このリンクをクリックすれば聴けるんだな」
という理解という点で「LinkCore」のほうが直感的に分かりやすい。

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聴いた人が気に入ったら、さらにそれをすぐにシェアしやすい。

この「分かりやすさ」が
「…

ごんぎつね 解釈

突然ですが、
『ごんぎつね』(新美南吉)の解釈をしてみました。
(個人的な想像をかなり含みます)

「『ごんぎつね』は「兵十」による「ごん」への哀悼の物語である。」

これが結論です。

そう思った理由は冒頭の一行です。
「これは、わたしが小さいときに村の茂平というおじいさんからきいたお話です」
この物語はこの文章から始まります。

つまり、この物語の「語り手」は「わたし」です。
「わたし」は「茂平というおじいさん」からこの話を聞き、
それを、読者に向かって語ります。
そのため、物語の中の言葉はすべて「わたし」の語っている言葉です。
兵十の言葉も、ごんの言葉も「わたし」の言葉です。
「小さいとき」に「茂平というおじいさん」からきいたお話を
大人になった「わたし」が語っているため、物語全体には「わたし」による
再構築も含まれることになります。

「わたし」がもとにしたお話しは「茂平というおじいさん」のお話しです。

では「茂平というおじいさん」がさらにもとにした話は誰が語ったのか?
「茂平」は誰からこの話を聞いたのか?
これは本文にでてこないので分かりません。個人的には、
兵十や加平など「物語のリアルタイムの時間帯にいた人」から聞いたのだと推測します。

それでは、
「物語のリアルタイムの時間帯にいた人が茂平に語ったお話」
の原型をつくったのは誰か?
それは「兵十」です。この物語を体験したのは唯一、兵十だけです。
兵十が誰かに自分の体験を物語ったのが発端となります。

時系列でまとめると、

兵十がごんとの出来事を体験する(きっかけ)

兵十が出来事の意味を考える(話の原型)

その体験を誰かに話す(原型の完成、および「物語」化)

茂平というおじいさんがその話を聞く(茂平の物語となる)

わたしが茂平からその話を聞く(わたしの物語となる)

という流れです。

つまり、この物語の全ての元は、兵十です。

兵十は、「自分と加助が話をしているのをごんが聞いていた」
ということは知りません。
「葬式の場面を目撃した」ことも、「ごんが何をどう思ったのか」も知りません。
兵十がごんについて知っているのは、
「ごんがひとりぼっちのきつねでいたずらをすること」
「ごんがうなぎを盗んだこと」
「家に侵入したこと(同時に栗を持ってきたのがごんだと推測)」
「ごんが、ぐったりと目をつぶったまま、う…

動物園のベンチ(小説)

サンタクロースがいた。なぜか白い服を着て動物園のベンチに座っていた。空から灰色の雲の影が地面にふりつもっていた。彼は疲れているようだった。風が吹くと寒く感じた。

   11月1日の午後3時だった。秋という言葉が似合い始める頃だ。クリスマスは当然、まだまだ先だ。営業から帰る途中で小さな動物園に入ると、サンタクロースがいた。

 動物園の中央広場のベンチだった。ゾウの柵も見えるしサルの柵も見える。彼はゾウのいないゾウの柵を見ているように見えた。やはり彼は疲れているように見えた。無理もない。まだ11月1日だから、彼には少し重力が重すぎるはずだ。

 「午後3時だから」と僕は必要のないひとり言をつぶやいて、自動販売機であたたかい紅茶を買った。ちいさなペットボトルだ。

 僕はその紅茶を、彼に渡すところを想像しながら、ひと口飲んだ。

 あたたかさが胸の中に広がった。もうひと口。今度は彼が紅茶を受けとるところを想像しながら飲んだ。あたたかさが体を包んだ。サンタクロースの服が少しずつ赤みを増していた。

    紅茶を飲み終わるころには彼はいつもの赤い服を着ていた。僕は姿の見えないゾウのことを思い、ゾウのために何か飲みものを買おうと自動販売機へ向かった。僕は誰のために何をすることができるのだろう。僕はあたたかい紅茶を買って再びベンチに座りゾウの柵を見つめた。

 僕は誰のために何をすることができるのだろう。もう一度そう思った。営業先の担当者の厳しい言葉を思い出した。あの担当者は真剣な眼差しをしていた。まだ。まだ誰かのために何かできるかもしれない。僕は紅茶のペットボトルをビジネスバッグに入れ、灰色のすき間にのぞく青空を見上げて立ち上がった。


ーーー



※noteというサイトで「紅茶のある風景」というお題でコンテストが開催されていました。小説で応募してみようと、小説の創作に挑戦していました。最後の段落を考えている間にコンテスト募集は終わりましたが、創作の成果として投稿しました。
 なお、「紅茶のある風景コンテスト」の説明に書いてあったのですが、作中にでてくる「11月1日」というのは「紅茶の日」だそうです。ということであえてこの日付にしました。「午後3時」というキーワードも、もちろん「午後のお茶の時間」を意識したものです。あとは思うがままに書いた感じで、書きながら楽しく感じました。
 ここまで読…

Twitterと組み合わせると力を発揮しそうなnoteというサービスについて思ったことを書きました

note というサービスで曲を紹介してみた。(※文章下部に追記あり)

埋め込みの形で共有ができるみたいなので
テスト的に貼り付けてみた。


(※うまく貼り付けられなかったのでリンク削除した)


どんな感じになるのかちょっとよくわからないけど。

使ってみると note は「売り場」のための「場所」として
効果を発揮するサービスのような気がします。

その中で何かつながりを広げたりするのではなくて
(もちろんフォローやいいねの機能もありますが)
「売り場」として曲やテキストなどを置いて
「外」から誰かが買いに来る場所
のような気がします。

「外」というのはTwitterやFacebookなどの
「つながりができるけど、その中で売り買いはできない」
タイプのSNSです。

だからTwitterとnoteをうまく組み合わせて
使うといいんだろうなぁと
思いました。

him&any としては販売はしないので
単純に「作品を置く場所」という感じになると思います。

そうなると前からあるSoundCloudやYouTubeとの
差があまり無くなってしまうなぁ。

2018.11.17 him&any

©︎2018 him&any



というふうに11.17に書いたのだけれども
少し使ってみて違うなと思ったので追記します。

noteはけっこうおもしろい記事や漫画や写真に出会いやすい
場所だと思いました。

なんといっても何か作ったり書いたり描いたりしている
人たちばかりが集まっているので
すべての記事が何かしらの「作品」であるような
感じがしました。
音楽や写真やイラストや小説やマンガや音声記事だけでなく
エッセイやブログのような記事も
ひとつの文章作品としてそこにある気がしました。

ということでけっこう良い感じだと思います。

また例えば販売をしたいとか
自身の作品の金銭的価値をはかりたいとか
著作者としての権利を守るために
一定の基準を設けておきたいという人にとっては
記事に値段をつけたり
無料と有料の部分を設定したり
その中だけで販売を完結することができる
noteという仕組みはかなり良い感じだと思います。

「コミュニケーション」に重きをおいたツールとしては
おそらくTwitterにはかなわないという部分は
上記の文章にも書いた通りですが
作品を置いておく…

恋がふりつもる夜 20秒Cメロのみ

him&any「恋がふりつもる夜」20秒Cメロのみです。
短いので聴いていただけると嬉しいです。

ずいぶん前に作った曲ですが、
最近win10のフォトで何とか20秒の紹介動画をつくりました。

「ふりつもる」という言葉の連想から
「雪」の3D効果を使いました。冬っぽい感じになりました。
短いので見ていただけると嬉しいです。

歌詞

ゆれる不安と希望に
惑いつまづいて
塞がる世界で
甘いかなしい夢を見ていた


2018.11.20 him&any


©2018 him&any