スキップしてメイン コンテンツに移動

首の痛みとストレートネック その3

◆2月に「ストレートネック」という診断を受けました。
◆そこに至る経緯と対処をまとめておきます。
◆今後の自分に向けて。そして同じ症状のいつかのどこかの誰かに向けて。

その1 、 その2 の続き


・ストレートネックだと言われる【診断】



 旅行から帰宅、試行錯誤の就寝のあと、朝になり、開院時間に合わせて近くの「外科内科」の看板を掲げた病院へ行く。症状を問診票に書いて提出。旅行で先送りになっていた病院。ついに待望の診察室へ入る。

 問診票を見てドクターがひとこと「寝違えみたいなもんだね」という。この時点まで頸椎ヘルニアだと思っていたので「人に話をしたら頸椎のヘルニアじゃないかって言ってたんです」と伝えるも、あっさりと「レントゲンとろうね」と上手に諭される。

 レントゲンでは「上を向いて」「横を向いて」と言われるが痛みが怖いので、レントゲン技師の人に手で頭を動かしてもらう。

 再度診察室で、レントゲン写真を見ながら、「これが首の骨、こうやって分かれているよね、それぞれの骨と骨の縁のところがガサガサになってきてるから、ちゃんと自分の体のメンテナンスをするように」と言われる。そして「これが上を向いている写真、これが下を向いている写真」と交互に何度か見せられる「ね、首の骨がまっすぐでしょ、これストレートネックだよ、典型的な」と言われる。

 「!!」レントゲン写真を交互に見るとはっきりとわかった。頭は上を向いたり下を向いたりしているが、確かに首の関節の骨は、まっすぐなままだ。ドクターが「まっすぐなひとかたまりの骨みたいになっているから柔軟性がないんだよね」というのが目の当たりになっている。本当にそうなっている。「だから、ちょっとの刺激を柔軟に受け止められないから、疲労が蓄積して、何かの拍子に、くるんだよね」と言われる。「なるほど!!」それが金曜の夜のあの車の発進だった。

 ドクターが手を伸ばしてこちらの首回りを触りながら「首回りと肩の筋肉がこわばってるね、固いよ(正確には、かったいよー、という言い方だった)」と言われる。固いよと言われても自分ではちょっとわからないですね、という顔をしてみたら、「俺の肩さわってごらん」とドクターが言い、女性看護師も「先生の肩を触ってみてください」というので触らせていただくと、グニャグニャ!!だった。比べると、確かに自分の肩は固い(ダジャレみたいになってしまった)。

 「薬を出すから、今回の痛みは数日で終わるけど、ほっとくともっとひどいことになるから、リハビリした方がいいよ。」と言われ、そのままその外科内科の2階にあるリハビリ室へ移動。

 人生初のリハビリ室でドキドキしながら待っていると、人生初の「電気治療をしますね」の言葉。首に電極を付けて8分流すのだという。「で、電気」という顔をしていたら、「痛い手前の刺激で調整するので言ってくださいね」と声をかけていただいたので、「痛い手前」で調節してもらい8分。電気治療はとても気持ちが良かった。そしてドキドキしながら次を待っていると、どの動きでどれだけ痛いのか、細かく確認される。結果、お風呂に入ったから炎症が悪化したかもしれないし、お風呂の後に、冷えたから炎症が悪化したかもしれない、と言われる。それ以外はドクターに言われたことをとてもかみ砕いてやさしく教えていただく。「なるほど」と納得したところで、うつぶせとなり、マッサージ?のような施術が始まる。

 左の肩甲骨が右よりも下がっているらしいことが判明。どうやらそれは不自然なことなのだが、その無理な体勢をとることで他の部分のアンバランスを肩甲骨が補っている、ということらしい。理科室の骨の標本は針金でつながっているが、人間の場合は、筋肉でつながっていて、肩甲骨は柔軟性があるので他の部分のアンバランスを自分の位置を変えることで調整していたのではないか、ということらしい。

 さらに今回の炎症とは別に、左肩に部分的な「コリ」があることも判明。そう言われながら押されると確かに何かゴリゴリとしたものがある。「そんなものが自分の左肩にあったなんて」という気持ちだった。マッサージの終わった時点で、首の可動範囲が広くなっていることに気付く。そして柔軟運動の方法まで教えてもらう。これから数日リハビリに通ってもらうがその合間も自分で、ツッパリをほぐしておくこと、そして動かしてこなかった部分を動かしていく練習をすること、と言われる。なるほど。今日何度目のなるほどだろう。納得することばかりだ。

 病院をでるときにはさらに痛みが軽減されていることに気付く。痛みどめなど飲まなくていいのではないかと思ったが、薬局で油断してうなづくとやはり痛かったので痛みどめもしっかりと飲むことにした。

 原因と対処法がここでようやく明確になった。「ストレートネック」の延長にある炎症が原因。そしてストレートネックそのものに対する柔軟やマッサージが、対処法だ。

 帰宅して痛みどめを飲み、塗り薬を塗ってしばらくするとまったく痛みはなくなった。でも、この痛みの無い首の中には、まだ炎症がくすぶっているわけだし、痛みの無い中に首への負担は確実にかかっている。もう痛みが無いので左手を添える必要はないが、そうなると、首の「キーポイント」に確実に感じることの無い負担はかかっている、ということだ。暗闇の中でひっそりと進む何かの儀式のように。これに慣れてしまうとまたいつか同じことになる、いや、ドクターが言うように、今回よりもっとひどいことになる、はずだ。

 ちゃんとリハビリに通ってストレートネックを改善しようと思う。

2017.2.22 him&any

©2017 him&any



コメント

このブログの人気の投稿

ASKA「止まった時計」

ASKAの「止まった時計」という曲が好きである。

わりとスローテンポなバラード(?)であるが
なんだか神秘的で幽玄な雰囲気のイントロから始まり
オーケストラ(?)のようなアレンジが
ぐうっと心をもっていくように感じるのである。
特に後半の最後のサビあたりのもっていくパワーはものすごい。
ASKAの独特の「ぅぅわぁぁぁああ」という感じの
歌声によるもっていくパワーとストリングスが重なって
「もっていかれる」のである。

ちなみにイントロがけっこう長くて
歌が始まるまで約1分20秒。
これを長いと感じるかどうかであるが
このイントロをジックリ聴くことでASKAの歌いだしの第一声に
すーっと入っていくことができるのだと思う。
第一声の歌詞の内容的にもこの長いイントロは意味を含む気がする。
なのでこのイントロは「必要」で「必然的」な長さなのだと思う。

これはたぶん「ものすごく長い小説」を読むときの気持ちに
近いかもしれない。
小説世界の内容の良し悪しはもちろんではあるが、
その「長い小説」の場合は、「長さ」が重要なので、
その「長さ」を読者として「通過」することで
目にすることができる世界があるのである(たぶん)。

歌詞の内容は恋愛の歌詞であると思う。
もしかしたら恋愛という設定を借りたもっと別の
意味があるのかもしれないけどそれは私には分からない。
たぶん女性目線での恋愛に関しての歌詞だと思うけれど
それを女性が聴くと確かにそうだねと思うのだろうか。
あるいはもっとあっさりしているよと思うのだろうか。

これだけ時間と心を費やして聴く曲であるということは
夜にじっとり聴くのにとても良い曲なので、
忙しい時にサクッとサビまで聴きたいような気持ちの時は
あまりセレクトされない曲である(私の中で)。

この曲は「SCENE2」というアルバムに収録されている。
調べてみたら1991年。CHAGE&ASKAの「SEY YES」という曲が
爆発的にヒットした年でもあるらしいので、
おそらくASKAのソロアルバムの中では一般的な認知度も
高いかもしれない。
このアルバムには他にもいい曲が多い。

私の人生においてもときどき「止まった」期間があるように思う。
今はたぶんその中にいる気がする。
ASKAの歌う「止まった時計」の歌詞の意味とはズレるだろうけど
自分の人生の中の「止まった時…

タガがはずれる・ハメをはずす・ハネをのばす 比較

◆前置き
 自由詩「夢の中の配役」の中で、「理性のタガがはずれる」という言い方をしたときに、同時に浮かんだ3つの表現について比較してみます。

 3つの表現とは、タガがはずれる、ハメをはずす、ハネをのばす、です。

 あくまでも個人の感想です。語源の検証や、用例の正確さを保証する内容ではありません。あくまでも個人の感想ですので、例えばテストで、この3つの表現について意見を述べよ、という問題が出て、このブログを参考に答案を書いて、不正解だったとしても、責任は負えません。先生に、him&anyのブログにそう書いてあったのに、と言ってもおそらく効果はありません。むしろ逆効果かもしれません。ご注意ください。


◆タガがはずれる
 漢字だと、箍が外れる、と書くようです。こんな漢字だとは知りませんでした。日本語を勉強中の皆さん、この漢字を知らなくても、少なくとも数十年は問題なく日本で生活できることが今ここで証明されたので、ご安心ください。

 意味は、しめつけや枠組みがなくなることのようです。ひつじ牧場の、囲いの柵がなくなるようなイメージですね。ひつじ達はどこにでも行くことができます。

 理性のタガがはずれる、ということは、理性によるしめつけや枠組みがなくなる、ということです。理性にしめつけられているのは本能ですね。本能が自由に振る舞うことができる、という意味になります。

 本能が自由に振る舞うということは、つまり、自然、ということでしょうか。いわゆる社会的規範や常識的行動、あるいは公序良俗といったものにとらわれない、ということになります。

 「あいつはタガがはずれちゃったんだよ」なんて言うときは、何かの原因があって、振る舞いに良識を感じられなくなる、という意味になります。

 でも、人間の「自然」って、本能が自由に振る舞うだけではない気がします。本能もあり、理性もあるというのが現在の人間の脳の構造であるなら、どちらも有効に機能できている状態が、自然、なのかもしれません。


◆ハメをはずす
  漢字だと、羽目を外す、と書くようです。ただ、もともとは「馬銜」と書いたようです。「馬銜」というのは、馬の口に噛ませて馬の動きを制御するものだそうです。「馬銜」は「ハミ」とも「ハメ」とも読むそうです。そこから、「羽目」の漢字をあてることになったそうです。

 もともとの「馬を制御する」という意味から分かるように「羽目を…

TuneCore Japan で 「LinkCore」 というサービスが始まった

「TuneCore Japan」 で 「LinkCore」 というサービスが始まった。

「LinkCore」とは
TuneCore Japanから配信しているリリースについて
すべての配信先をひとまとめにリンクしたサービス、ということだ。

詳細はこちら→ LinkCore

実際のLinkCoreの画面は
上にシェアボタンと曲のジャケットがあり
その下に配信されているサービスへのリンクが並んでいる。

とても見やすい。

これは確かにとても便利だ。
これまでは個々の配信先のリンクをツイッターに載せたりしていたが

この「LinkCore」を使うと
いちどにすべての配信先を紹介することができる。

このサービスの何がすごいかというと
「こういう機能があったらいいのになあ、と明確には
意識していなかったものの、無意識に何となく求めていたものを
サービスとして具現化したところ」
だと思う。

実際、このサービスがなくても、TuneCoreの中の
アーティストページのURLを貼っておけば、
そこから、各配信楽曲の配信先のサイトのロゴをクリックすることで
配信先に飛ぶことはできた。

しかしながら、「LinkCore」という「サービス」として
機能させることで、「聴いてもらうための作業」の中の
ワンステップの簡略化に成功していると思う。

配信する側としては「シェアする」のボタンひとつでシェアができる。
宣伝が楽になる。これは確かに簡略化だろうと思う。

聴く側としては、シェアされた画面の中から自分が利用している
音楽サービスを選択することで聴くことができる。
これもナイスアイデアだと思う。

とはいえ、
「LinkCore」と「アーティストページのURL貼り付け」では
聴く側の作業回数自体は実は変わっておらず、
「アドレスをクリック」→「音楽サービスへのリンクをクリック」
という2回の作業が必要になる。

(あれ?簡略化してないじゃない?)

(と、今、思ったので、もう少し理屈を述べることにする。)


「アドレスをクリック」した際に目にする画面で
「ああ、このリンクをクリックすれば聴けるんだな」
という理解という点で「LinkCore」のほうが直感的に分かりやすい。

しかも「シェアする」ボタンも見えやすいので
聴いた人が気に入ったら、さらにそれをすぐにシェアしやすい。

この「分かりやすさ」が
「…

動物園のベンチ(小説)

サンタクロースがいた。なぜか白い服を着て動物園のベンチに座っていた。空から灰色の雲の影が地面にふりつもっていた。彼は疲れているようだった。風が吹くと寒く感じた。

   11月1日の午後3時だった。秋という言葉が似合い始める頃だ。クリスマスは当然、まだまだ先だ。営業から帰る途中で小さな動物園に入ると、サンタクロースがいた。

 動物園の中央広場のベンチだった。ゾウの柵も見えるしサルの柵も見える。彼はゾウのいないゾウの柵を見ているように見えた。やはり彼は疲れているように見えた。無理もない。まだ11月1日だから、彼には少し重力が重すぎるはずだ。

 「午後3時だから」と僕は必要のないひとり言をつぶやいて、自動販売機であたたかい紅茶を買った。ちいさなペットボトルだ。

 僕はその紅茶を、彼に渡すところを想像しながら、ひと口飲んだ。

 あたたかさが胸の中に広がった。もうひと口。今度は彼が紅茶を受けとるところを想像しながら飲んだ。あたたかさが体を包んだ。サンタクロースの服が少しずつ赤みを増していた。

    紅茶を飲み終わるころには彼はいつもの赤い服を着ていた。僕は姿の見えないゾウのことを思い、ゾウのために何か飲みものを買おうと自動販売機へ向かった。僕は誰のために何をすることができるのだろう。僕はあたたかい紅茶を買って再びベンチに座りゾウの柵を見つめた。

 僕は誰のために何をすることができるのだろう。もう一度そう思った。営業先の担当者の厳しい言葉を思い出した。あの担当者は真剣な眼差しをしていた。まだ。まだ誰かのために何かできるかもしれない。僕は紅茶のペットボトルをビジネスバッグに入れ、灰色のすき間にのぞく青空を見上げて立ち上がった。


ーーー



※noteというサイトで「紅茶のある風景」というお題でコンテストが開催されていました。小説で応募してみようと、小説の創作に挑戦していました。最後の段落を考えている間にコンテスト募集は終わりましたが、創作の成果として投稿しました。
 なお、「紅茶のある風景コンテスト」の説明に書いてあったのですが、作中にでてくる「11月1日」というのは「紅茶の日」だそうです。ということであえてこの日付にしました。「午後3時」というキーワードも、もちろん「午後のお茶の時間」を意識したものです。あとは思うがままに書いた感じで、書きながら楽しく感じました。
 ここまで読…

Twitterと組み合わせると力を発揮しそうなnoteというサービスについて思ったことを書きました

note というサービスで曲を紹介してみた。(※文章下部に追記あり)

埋め込みの形で共有ができるみたいなので
テスト的に貼り付けてみた。


(※うまく貼り付けられなかったのでリンク削除した)


どんな感じになるのかちょっとよくわからないけど。

使ってみると note は「売り場」のための「場所」として
効果を発揮するサービスのような気がします。

その中で何かつながりを広げたりするのではなくて
(もちろんフォローやいいねの機能もありますが)
「売り場」として曲やテキストなどを置いて
「外」から誰かが買いに来る場所
のような気がします。

「外」というのはTwitterやFacebookなどの
「つながりができるけど、その中で売り買いはできない」
タイプのSNSです。

だからTwitterとnoteをうまく組み合わせて
使うといいんだろうなぁと
思いました。

him&any としては販売はしないので
単純に「作品を置く場所」という感じになると思います。

そうなると前からあるSoundCloudやYouTubeとの
差があまり無くなってしまうなぁ。

2018.11.17 him&any

©︎2018 him&any



というふうに11.17に書いたのだけれども
少し使ってみて違うなと思ったので追記します。

noteはけっこうおもしろい記事や漫画や写真に出会いやすい
場所だと思いました。

なんといっても何か作ったり書いたり描いたりしている
人たちばかりが集まっているので
すべての記事が何かしらの「作品」であるような
感じがしました。
音楽や写真やイラストや小説やマンガや音声記事だけでなく
エッセイやブログのような記事も
ひとつの文章作品としてそこにある気がしました。

ということでけっこう良い感じだと思います。

また例えば販売をしたいとか
自身の作品の金銭的価値をはかりたいとか
著作者としての権利を守るために
一定の基準を設けておきたいという人にとっては
記事に値段をつけたり
無料と有料の部分を設定したり
その中だけで販売を完結することができる
noteという仕組みはかなり良い感じだと思います。

「コミュニケーション」に重きをおいたツールとしては
おそらくTwitterにはかなわないという部分は
上記の文章にも書いた通りですが
作品を置いておく…

恋がふりつもる夜 20秒Cメロのみ

him&any「恋がふりつもる夜」20秒Cメロのみです。
短いので聴いていただけると嬉しいです。

ずいぶん前に作った曲ですが、
最近win10のフォトで何とか20秒の紹介動画をつくりました。

「ふりつもる」という言葉の連想から
「雪」の3D効果を使いました。冬っぽい感じになりました。
短いので見ていただけると嬉しいです。

歌詞

ゆれる不安と希望に
惑いつまづいて
塞がる世界で
甘いかなしい夢を見ていた


2018.11.20 him&any


©2018 him&any


ごんぎつね 解釈

突然ですが、
『ごんぎつね』(新美南吉)の解釈をしてみました。
(個人的な想像をかなり含みます)

「『ごんぎつね』は「兵十」による「ごん」への哀悼の物語である。」

これが結論です。

そう思った理由は冒頭の一行です。
「これは、わたしが小さいときに村の茂平というおじいさんからきいたお話です」
この物語はこの文章から始まります。

つまり、この物語の「語り手」は「わたし」です。
「わたし」は「茂平というおじいさん」からこの話を聞き、
それを、読者に向かって語ります。
そのため、物語の中の言葉はすべて「わたし」の語っている言葉です。
兵十の言葉も、ごんの言葉も「わたし」の言葉です。
「小さいとき」に「茂平というおじいさん」からきいたお話を
大人になった「わたし」が語っているため、物語全体には「わたし」による
再構築も含まれることになります。

「わたし」がもとにしたお話しは「茂平というおじいさん」のお話しです。

では「茂平というおじいさん」がさらにもとにした話は誰が語ったのか?
「茂平」は誰からこの話を聞いたのか?
これは本文にでてこないので分かりません。個人的には、
兵十や加平など「物語のリアルタイムの時間帯にいた人」から聞いたのだと推測します。

それでは、
「物語のリアルタイムの時間帯にいた人が茂平に語ったお話」
の原型をつくったのは誰か?
それは「兵十」です。この物語を体験したのは唯一、兵十だけです。
兵十が誰かに自分の体験を物語ったのが発端となります。

時系列でまとめると、

兵十がごんとの出来事を体験する(きっかけ)

兵十が出来事の意味を考える(話の原型)

その体験を誰かに話す(原型の完成、および「物語」化)

茂平というおじいさんがその話を聞く(茂平の物語となる)

わたしが茂平からその話を聞く(わたしの物語となる)

という流れです。

つまり、この物語の全ての元は、兵十です。

兵十は、「自分と加助が話をしているのをごんが聞いていた」
ということは知りません。
「葬式の場面を目撃した」ことも、「ごんが何をどう思ったのか」も知りません。
兵十がごんについて知っているのは、
「ごんがひとりぼっちのきつねでいたずらをすること」
「ごんがうなぎを盗んだこと」
「家に侵入したこと(同時に栗を持ってきたのがごんだと推測)」
「ごんが、ぐったりと目をつぶったまま、う…