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ASKA "Too many people" 感想 Be free

ASKAさんのアルバム"Too many people"の感想その2です。
今回は2曲目のBe freeです。

前の記事と同じくたいしたことは書けませんが
ある意味ネタバレになるので
「まだ聴いていないんだからなんの情報も知りたくない」
という人もいると思うので
各人の責任においてこの先を読むかどうかの判断を
お願いいたします。

◇ ◇ □

◇◇

◇ □ ◇

◇◇





2曲目は 「Be free」という曲です。

ピアノとボーカルの印象的なテンポの歌い出しから始まります。

歌の構成というと、ふつうAメロ → Bメロ → サビ
という進み方をするのですが
この曲のAメロはとても印象的で、
サビであってもおかしくないほどに印象的で気持ちいい。

なので
サビ → Bメロ → サビ → Bメロ → 別のサビ

と進んでいるような感じで聴いています。
といってもBメロもこれはこれでサビかと思うくらいの良いメロディーです。

ところでこのAメロ&サビのような冒頭の部分は
「夢の番人」を彷彿させる雰囲気だと思いました。
「夢の番人」はCHAGE&ASKAのアルバム「RED HILL」に収録されています。
シングル「YAH YAH YAH」の両A面のもう1曲目としても収録されています。

とはいえ、「夢の番人」とは違って
上記の「Bメロ」に入ったところで、パッと曲調と雰囲気が変わります。
ゆったり、やさしく、たおやかな感じになります。

ただ、歌詞は、けっこう「たおやか」ではない感じがしますね。
決しておだやかではない心境をやわらかく表現している気がします。
報道等でASKAさんの事件や経緯を知っているからこそ
いろいろ意味をこめられているなあという気がします。

そう思うと、昔のCHAGE&ASKAの頃よりは
抽象的な感じが減って、より直接的な歌になっている気もします。

ところで、この「Be free」の中での曲調の変化の仕方は
ASKAさんのソロ「草原にソファをおいて」に通じるものを感じます。
ソロアルバム「ONE」に収録されています。
こちらは逆にAメロとBメロがたおやかな感じで、サビ前のCメロが
急にドラムが入って力強い感じになります。
そしてAメロのたおやかさとCメロの力強さをミックスさせたような感じで
サビになります。

「草原にソファをおいて」を最初に聴いたころは
あまりこの「Cメロ」の展開が好きではなかったのだけれど、
何度も聴くうちに、「あ、このサビのために、このCメロが必要なのかな」
と思うようになりました。

ということで「Be free」に戻りますと、
こちらは、上記でいうところの「Bメロ」から「別のサビ」が
たおやかにおおらかになめらかにつながっていきます。

そしてストリングスやハープのような音が
広く大きな世界観を演出してくれます。

そしてAメロ(のようなサビ)にもどってきても
勢いのあるメロディーなので曲全体の流れが損なわれることなく
さらに上昇していく感じがします。

そのまま、2回目の「別サビ」まで登っていくので
この2回目の「別サビ」はとても浮上感のある感じで聴くことができます。
これはあくまでも、ここまでの流れを途切れなく聴いた場合です。
2回目の「別サビ」だけを取り出して聴くとそうでもないと思います。

曲やアルバムを「通して聴く」ということには
きっとそういう意味や効果もあると思います。

なのでヒットシングルのばら売りやベスト盤、
曲の中のいいところだけを切り取って繋げる聴き方ではきっと
聴くことのできない世界なのだと思います。

(とはいえベスト盤は好きです。)
(いろんな人のベスト盤を買っています。)

そして間奏を挟んでさらに3回目の「別サビ」

ここまで通して聴いていくと、ここの盛り上がり方は
とてもすごいと感じることができると思います。

こういったあたりは、編曲の力も相当大きいんだと思います。

そのあとはけっこうさっぱりと終わるのですが
後を引かない感じでいいと思います。


2017.5.5 him&any

©2017 him&any



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