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僕は失意の中で

音楽の中に沈んでいるのだった
僕は失意の中で
それを聴くのだった
忘れていた
それは僕じゃなくて
やさしい風だった
それは僕じゃなくて
忘れていた
僕は失意の中で
音楽に沈んでいるのだった
それは僕じゃなくて
あたたかい声だった
その何かも届かないところで
沈み込んで冷たく固まっている
魂だからこそ
聴こえるのだった
僕は失意の中でいつもずっと
それは僕じゃなくて

次々に分岐しながら広がるように。

水が流れる先を探して隙間から隙間へとたどって流れていくように人生を生きてきた。傾きがあるからこそ次の場所に進めたのかもしれない。ずいぶん長い下り坂をくだってきたようだ。あちこちに曲がりながら流れやすい場所を探しながら。気がついたらこんな場所にいた。最初と今のつながりを辿ってもどこでどうやってここまでつながってきたのかわからない。でも植物の根が次々に分岐しながら広がるように時間は流れていく。途中で硬い石にぶつかればそこでまた分岐して先へ先へと水のある場所を求めて進んでいく。その水がどこに送られているのかも知らない。今ごろ地上では輝かしい太陽の光の下で花を咲かせているのかもしれない。冷たい雪の下で春を待っているのかもしれない。でもそんなことは知らない。今見えるのはどこまでも続く土の中の暗闇と時々ぶつかる石ばかりだ。今もまた石にぶつかって分岐して進んでいく。今いるのはあるいはこちらの根かもしれない。あるいはあちらの根かもしれない。分岐して土の暗闇の中へ進んでいったのはもしかしたら自分ではないだろうか。深い深い土の暗闇の中で触れあった水に手を添えてそっと抱きしめて溶けあう。

2018.12.18 him&any

©︎2018 him&any

「インターネットは世界に向けて開いた窓」

「インターネットは世界に向けて開いた窓」という言い方をひと昔前はよく見聞きしていたような気がする。

「インターネットは世界に向けて開いた窓」というのは本当にうまい表現で、自分に関して言えば、現状として部屋の中にいる自分を窓の外にさらけ出しているだけであって、自分の「視野」は自分の部屋の窓枠サイズの大きさでしかなく、特に視野が世界規模に広がったわけではない。

ツイッターのタイムラインはまさに自分が作った窓で、フォローしている数によってその窓枠のサイズが変わる。本当はもっと、とてつもない大きさの「流れ」が外にあるのだけど、自分がフォローすることで作り上げた窓枠の中を流れる世界しか見えない。

もちろんインターネットやツイッターやSNSがなければ知ることがなかった曲や絵や写真や文章や情報がたくさんあるから、それは(ほんの20年前には存在していなかった状況であり)とても素晴らしいと思っているけれど、自分で動いて色々なモノを見に行かなければ昔と比べて視野は広がってはいない。

しかも最近のwebサイトはYouTubeもツイッターも広告もその優秀さゆえに「興味がありそうなモノ」を絞りこんでオススメしてくれるから、あえてそこを避けていかないと「自分の興味」という小さなサイズの窓枠から覗いて見える「狭い世界」しか見えない。インターネットで世界は広がったようで、実は相変わらず閉じられている。自分の窓枠、つまり自分の世界の中に閉じ込められている(これはインターネットに限らず思考や認識が原因でもあると思うけれど)。

自分が自覚的に窓枠サイズを広げていかないとインターネットの利点をほとんど享受できていないのではないだろうか。ツールの進歩に、それを「使う」はずの自分が追いついていけていない。「使う」ことができていない。むしろ使われている気さえしてくる。なんだかとてももったいない気がする。

2018.12.16 him&any

©︎2018 him&any

him&any 恋がふりつもる夜 歌詞

それはまるで おとぎ話のような
やわらかく光る風に 包まれて静寂あふれる夜

あきらめてひとり 歩く夜の足もと ぽつり
見上げるとまるで夢の ような景色が あふれたんだ

そう それは降り落ちる恋の 見える夜
あちらこちらに 切ない うれしいが
今はもう 三日月も星座も見えないけれど

こんな

恋がふりつもる夜 あなたはまぶたをふせて
恋がふりつもる夜 あなたは何を悲しむの
胸の奥に 深く閉じ込めて

うつむいた横顔 ここには もう いないから
手をのばさなくていい 触れそうなそばで届かなかった

そう それは心の飽和した夜
あふれた痛みが 洗い流し 透き通る
その弱さも やさしさも 鮮やかに浮かぶような

こんな

恋がふりつもる夜 寄り添う傘 遠く揺れて
恋がふりつもる夜 それは たぶんそのままでいいと
声にならない 歌かすれたまま

揺れる不安と希望に 惑いつまずいて
塞がる世界で甘い哀しい夢を見ていた
聞こえない 見えないような 平気さを装って
可能性の残像 それは そっとそのままにして
風を見送って 星の輝くほうへ




him&any 2018.12.15

©2018 him&any


Love is sadness 恋は悲しさです

なぜ先日から
「恋は悲しさ」とか
「恋しいと悲しいは似ている」とか
言っているかというと

「恋」と「悲しい」という
一見すると(喜び)←→(悲しみ)の両端にいるような
言葉が
とても似ているということに
気が付いたからです。

なにか面白いものがあると
「ねぇ、聞いて聞いて」と言う子どものように
自分の発見を伝えたいのです。

発見とはつまり

おそらく「恋」は「悲しみ」に含まれます。

ということです。


図で示すと


 ーーーー悲しみーーーーーー
|             |
|             |
|     ---恋ーーーーーー
|    |          |
|    |          |
|     ----------
ーーーーーーーーーーーーーー|


こんな感じかと
思います。


多少はみだしているのは、
やはり「悲しみの中におさまらない恋」も
あるのではないかという
…保険です。

「恋」というのは
「遠く手に届いていないものへのあこがれ」
だと思います。
だから「愛」とは違うと思います。

「恋人同士」
として手をつないでいても
「その手はいつ離れてしまうかもしれない」
「あなたは違うことを思っているかもしれない」
という「距離感」がありますよね。

たぶん。

だから「恋」だと思うのです。

「もう夫婦を10年もやってますよー」
というふたりは
「距離感も含めて相手と自分の場所ができている」から
「手に届かないもの」ではなくて「愛情」が
生まれているのではないかと思います。

ぜんぶ想像ですが。


ということで「恋は悲しみの一部である」という発見をもとに

「恋は悲しさです」「Love is sadness」

という発見の報告でした。


2018.12.13 him&any


©2018 him&any


悲と恋 漢字の由来や成り立ち そして意味のつながり そして自分の曲

悲しい と 恋しい

漢字を見ていて何となく似ているなあと
思いました。

下の「心」が同じというだけですが。

成り立ちを調べると

「悲しい」の「非」のところは

・羽を広げた形=左右に分かれる とか
・互いに背を向けた人=左右に分かれる とか

そういう意味があるようです。

それで左右に分かれる心で悲しい
ってことみたいですね。

「恋しい」の「亦」のところは
旧字の「戀」でみると「糸+言+糸」だそうです。

・糸が絡まったような様子 とか
・糸を引きあうような様子 とか

そういう意味があるそうです。

ということで絡まるように引き合う心で恋しい
っていうことになるんでしょうね。

悲は「左右に分かれる」
恋が「引き合い、絡まる」

ということで成り立ちや由来からすると
正反対なんですね。

もちろん、意味も「悲しい」と「恋しい」は
反対な気がしますが、

でも、意味は似ている気がしませんか。

僕は似ている気がします。

恋をすると悲しいとか、
悲しみは恋があればこそ、みたいなところないですか。

感情としてもとても似ている気がするんですね。

だから日本語でいう「愛」と「恋」は
決定的に違う気がします。
(英語ではたぶんどちらも「LOVE」だと思います)

恋とはたぶん悲しいものなんです。

なぜなら「恋をしている」というのは
基本的に相手と「離れている」からです。

「恋人」だって結婚している人ではないので
そのふたりは、まだ離れているわけです。法律的にも。

それに「恋しく思う」のは
その対象が自分から離れているからこそ
「恋しく」感じるのではないかなと思います。

ずっとそばにいて、深いつながりを感じられている状態は
もう「恋」とは呼ばない気がします。

だからこそ「恋」は手に届かなくて遠くにあって
だからこそ綺麗にみえるものなのではないでしょうか。
それはそれで「恋」の良さなんだと思います。

ということで、ツイッターに書いた短詩「悲恋」

「なぜ悲しいのですか」
「まだ恋しいからです」

ということで成り立ちや由来は反対だけど
意味としては反対ではなくつながりがあるような気がする
「悲しい」と「恋しい」についての考察でした。

him&anyの曲「そっと星の色を」の歌詞も
Aメロで「行き場のない悲しみは 心の中に 残って」
と歌っていて
サビで「さよならも言わないまま また会おうねって…

動物園のベンチ(小説)

サンタクロースがいた。なぜか白い服を着て動物園のベンチに座っていた。空から灰色の雲の影が地面にふりつもっていた。彼は疲れているようだった。風が吹くと寒く感じた。

   11月1日の午後3時だった。秋という言葉が似合い始める頃だ。クリスマスは当然、まだまだ先だ。営業から帰る途中で小さな動物園に入ると、サンタクロースがいた。

 動物園の中央広場のベンチだった。ゾウの柵も見えるしサルの柵も見える。彼はゾウのいないゾウの柵を見ているように見えた。やはり彼は疲れているように見えた。無理もない。まだ11月1日だから、彼には少し重力が重すぎるはずだ。

 「午後3時だから」と僕は必要のないひとり言をつぶやいて、自動販売機であたたかい紅茶を買った。ちいさなペットボトルだ。

 僕はその紅茶を、彼に渡すところを想像しながら、ひと口飲んだ。

 あたたかさが胸の中に広がった。もうひと口。今度は彼が紅茶を受けとるところを想像しながら飲んだ。あたたかさが体を包んだ。サンタクロースの服が少しずつ赤みを増していた。

    紅茶を飲み終わるころには彼はいつもの赤い服を着ていた。僕は姿の見えないゾウのことを思い、ゾウのために何か飲みものを買おうと自動販売機へ向かった。僕は誰のために何をすることができるのだろう。僕はあたたかい紅茶を買って再びベンチに座りゾウの柵を見つめた。

 僕は誰のために何をすることができるのだろう。もう一度そう思った。営業先の担当者の厳しい言葉を思い出した。あの担当者は真剣な眼差しをしていた。まだ。まだ誰かのために何かできるかもしれない。僕は紅茶のペットボトルをビジネスバッグに入れ、灰色のすき間にのぞく青空を見上げて立ち上がった。


ーーー



※noteというサイトで「紅茶のある風景」というお題でコンテストが開催されていました。小説で応募してみようと、小説の創作に挑戦していました。最後の段落を考えている間にコンテスト募集は終わりましたが、創作の成果として投稿しました。
 なお、「紅茶のある風景コンテスト」の説明に書いてあったのですが、作中にでてくる「11月1日」というのは「紅茶の日」だそうです。ということであえてこの日付にしました。「午後3時」というキーワードも、もちろん「午後のお茶の時間」を意識したものです。あとは思うがままに書いた感じで、書きながら楽しく感じました。
 ここまで読…

Decemberや師走という12月の呼び方のさらに別名を考えてみた結果としての山下達郎

さて、

12月ですね。

英語では December です。

日本では「師走」ともいいますね。

「師」というのは僧侶のことらしく、

僧侶が忙しくて走り回っているから「師走」

という説もあるそうです。

あとは、四季が終わるという意味で「四極(シハツ)」

という説もあるそうです。

言葉の由来はおもしろいですね。

December  の由来はというと

10番目の月、という意味だそうです。

不思議ですね。

そこで

新しい12月の呼び方を考えてみました。

思いついたのがこちら↓

「Tatsuro」

日本語表記だと「たつろう」ですね。

あの有名な山下達郎の「たつろう」です。

もう12月といえば必ず

山下達郎の「クリスマス・イブ」を聴くので

この曲は「師走」の師くらい

街中を走り回っているのではないでしょうか。

この曲とても好きです。



2018.12.1 him&any


©︎2018 him&any