スキップしてメイン コンテンツに移動

ごんぎつね 解釈


突然ですが、
『ごんぎつね』(新美南吉)の解釈をしてみました。
(個人的な想像をかなり含みます)

「『ごんぎつね』は「兵十」による「ごん」への哀悼の物語である。」

これが結論です。

そう思った理由は冒頭の一行です。
「これは、わたしが小さいときに村の茂平というおじいさんからきいたお話です」
この物語はこの文章から始まります。

つまり、この物語の「語り手」は「わたし」です。
「わたし」は「茂平というおじいさん」からこの話を聞き、
それを、読者に向かって語ります。
そのため、物語の中の言葉はすべて「わたし」の語っている言葉です。
兵十の言葉も、ごんの言葉も「わたし」の言葉です。
「小さいとき」に「茂平というおじいさん」からきいたお話を
大人になった「わたし」が語っているため、物語全体には「わたし」による
再構築も含まれることになります。

「わたし」が『もと』にしたお話しは「茂平というおじいさん」のお話しです。

では「茂平というおじいさん」がさらに『もと』にした話は誰が語ったのか?
「茂平」は誰からこの話を聞いたのか?
これは本文にでてこないので分かりません。個人的には、
兵十や加平など「物語のリアルタイムの時間帯にいた人」から聞いたのだと推測します。

それでは、
「物語のリアルタイムの時間帯にいた人が茂平に語ったお話」
の原型をつくったのは誰か?
それは「兵十」です。この物語を体験したのは唯一、兵十だけです。
兵十が誰かに自分の体験を物語ったのが発端となります。

時系列でまとめると、

兵十がごんとの出来事を体験する(きっかけ)

兵十が出来事の意味を考える(話の原型)

その体験を誰かに話す(原型の完成、および「物語」化)

茂平というおじいさんがその話を聞く(茂平の物語となる)

わたしが茂平からその話を聞く(わたしの物語となる)

という流れです。

つまり、この物語の全ての元は、兵十です。

物語の中で、
兵十と加助が話をしているのをごんが聞いている、
という場面がありますが、
兵十は、「自分と加助が話をしているのをごんが聞いていた」
ということは知りません。

「ごんが実は葬式の場面を目撃した」ことも、
「ごんが何をどう思ったのか」も知りません。

兵十がごんについて知っているのは、
「ごんがひとりぼっちのきつねでいたずらをすること」
「ごんがうなぎを盗んだこと」
「家に侵入したこと(同時に栗を持ってきたのがごんだと推測)」
「ごんが、ぐったりと目をつぶったまま、うなづいたこと」
だけです。
とりあえず誰かに初めてこの出来事を話す場合は
上記の「知っていること」を「事実」として話すはずです。

しかし上記の「事実」だけでは、なぜそのようなことになったのか、
よく分かりません。誰かに話をしながら、うまくつじつまが合わないわけです。

そこから、
「あ、そういえば、誰かがいわしを放り込んだことがあったな」
「加助と話しながら歩いているときに、加助がひょいと振り向いたことがあったな」
という事実も思い出します。

もしかしたら葬式の日の描写で「ごんが目撃した人」として出てくる人は
本当は「ごんを目撃した人」なのかもしれません。

「そういえば、葬式の日に、ごんが町をうろうろしていたよ」と
弥助の家内(ごんが目撃したおはぐろをつけた人)や、
新兵衛の家内(ごんが目撃した髪をすいている人)が
兵十に伝えたのかもしれません。

そして、兵十が直接知っている出来事と、
新たに思い出した出来事や情報や想像をつなげ、
ごんの気持ちの変化や行動を類推して、ひとつの物語ができあがっていきます。

もしかしたら、兵十が誰かに(例えば加助に)
「ごんが、くりを持ってきてくれていたみたいなんだ」と話しながら
少しずつ物語が改変されながらつくりあげられていったのかもしれません。

このようにして「物語」がつくりあげられました。

例えば、実際は、
ごんはその日なんとなく栗を持って行っただけ、なのかもしれません。
その日以外に栗を持って行ったのはごんではなかった、かもしれません。
いわしを放り込んだのも本当はごんではなかった、かもしれません。

でも、「物語」では「栗を持ってきた理由」や
「いわしを放り込んだのがごんである」ということも描写されます。

そう考えると、
「ごんのつぐないと悲しい結末」というこの物語は、
兵十が「きっとこういうことに違いない」とごんを悼む思いで
つくりあげた物語であると思われます。
兵十が撃ってしまったごんを悼み弔う物語であると思われます。

これが最初に結論を書いた
「『ごんぎつね』は「兵十」による「ごん」への哀悼の物語である。」
ということです。

ごんは「うなぎは母親にあげるものだった」ことは知りません。
ごんが目撃したのは「兵十がとったうなぎ」だけです。
「うなぎを母親にあげるつもりかどうか」も兵十に聞かなければ、
ごんには知る由もありません。
ではなぜ、ごんは物語の中で、そのように気付く(思い込む)のか?
それは、物語の作り手が兵十本人だからです。

「うなぎをとってどうするつもりだったのか」というのは
物語の作り手である兵十本人なら当然知り得ることです。
病床にあった母親の様子も兵十なら知り得る事実です。

そのようにごんの気持ちの変化を類推したのは兵十です。

自分が知っている事実と自分の思っていたことをもとに、
ごんの気持ちを類推したのです。
そうしなければ自分が誰かに物語る時にうまく筋が通らないからです。

ごんが葬式の場面を目撃したことも、加助と兵十の話を聞いたことも
すべて兵十が事実と事実を繋げながら、ごんの行動や気持ちを類推したものです。

そして、「ごんがうなぎと葬式の件から、兵十につぐないをした」という
ストーリーと、ごんの「気持ち」までも描写される「物語」ができあがったのです。

撃たれたごんが「うなづいた」ところを現実に目にした兵十だからこそ
「ごんの行動や気持ち」を類推し、「ごんの物語」を作り上げ、
それに対して、「撃ったことへの自分の後悔」や「ごんへの哀悼」を込めて
この物語を誰かに語ったのではないでしょうか。

最後の場面の
「兵十は火なわじゅうをばたりと取り落としました」という描写は、
個人的な想像ですが、「茂平」による言葉だと思います。

ごんが打たれて目を閉じて、うなづく、というところまでが「兵十」の物語で、
その「物語」を受け止めた「茂平」の感想が「火なわじゅうを落とす」という描写に
込められているような気がします。
もともとの語り手である兵十が、「火なわじゅうを落とす」ことまで言及すると
不自然なような気がするからです。

そして、「青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました」という描写は
「わたし」が追加したのだと思います。これも個人的な想像です。
「兵十の物語」に対して「火なわじゅうを落とす」という描写を追加した
「茂平の語った兵十の物語」を聞いたうえでの「わたし」の思いや感想が、
「青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました」なのだと思います。

映画の一場面のような終わり方ですよね。このような余韻を残す描写は、
物語の内容を客観視して、少し離れた立場に立つからこそ見ることのできる視点から
生まれる表現だと思います。
そして「けむり」という「はかなく消えてしまう」存在を提示することで、
兵十とごんのすれ違いや、物語を聞いた人(わたし)のやりきれなさを
表しているのだと思います。

以上、個人的な想像ですが、『ごんぎつね』の解釈でした。


2017.10.9 him&any

©2017 him&any


コメント

このブログの人気の投稿

him&any「恋がふりつもる夜」Cメロ win10 フォトで動画作成

him&any「恋がふりつもる夜」 紹介用ショート版 Cメロ YouTube動画と歌詞です。 Win10のフォトで3D効果をのせています。 ーーー歌詞ーーー 揺れる   不安と 希望に    惑い つまづいて 塞がる世界で    甘い 悲しい 夢をみていた ーーー --- 2018.11.8 him&any ©2018 him&any

Decemberや師走という12月の呼び方のさらに別名を考えてみた結果としての山下達郎

さて、 12月ですね。 英語では December です。 日本では「師走」ともいいますね。 「師」というのは僧侶のことらしく、 僧侶が忙しくて走り回っているから「師走」 という説もあるそうです。 あとは、四季が終わるという意味で「四極(シハツ)」 という説もあるそうです。 言葉の由来はおもしろいですね。 December  の由来はというと 10番目の月、という意味だそうです。 不思議ですね。 そこで 新しい12月の呼び方を考えてみました。 思いついたのがこちら↓ 「Tatsuro」 日本語表記だと「たつろう」ですね。 あの有名な山下達郎の「たつろう」です。 もう12月といえば必ず 山下達郎の「クリスマス・イブ」を聴くので この曲は「師走」の師くらい 街中を走り回っているのではないでしょうか。 この曲とても好きです。 2018.12.1 him&any ©︎2018 him&any

タガがはずれる・ハメをはずす・ハネをのばす 比較

◆前置き  自由詩「夢の中の配役」の中で、「理性のタガがはずれる」という言い方をしたときに、同時に浮かんだ3つの表現について比較してみます。  3つの表現とは、タガがはずれる、ハメをはずす、ハネをのばす、です。  あくまでも個人の感想です。語源の検証や、用例の正確さを保証する内容ではありません。あくまでも個人の感想ですので、例えばテストで、この3つの表現について意見を述べよ、という問題が出て、このブログを参考に答案を書いて、不正解だったとしても、責任は負えません。先生に、him&anyのブログにそう書いてあったのに、と言ってもおそらく効果はありません。むしろ逆効果かもしれません。ご注意ください。 ◆タガがはずれる  漢字だと、箍が外れる、と書くようです。こんな漢字だとは知りませんでした。日本語を勉強中の皆さん、この漢字を知らなくても、少なくとも数十年は問題なく日本で生活できることが今ここで証明されたので、ご安心ください。  意味は、しめつけや枠組みがなくなることのようです。ひつじ牧場の、囲いの柵がなくなるようなイメージですね。ひつじ達はどこにでも行くことができます。  理性のタガがはずれる、ということは、理性によるしめつけや枠組みがなくなる、ということです。理性にしめつけられているのは本能ですね。本能が自由に振る舞うことができる、という意味になります。  本能が自由に振る舞うということは、つまり、自然、ということでしょうか。いわゆる社会的規範や常識的行動、あるいは公序良俗といったものにとらわれない、ということになります。  「あいつはタガがはずれちゃったんだよ」なんて言うときは、何かの原因があって、振る舞いに良識を感じられなくなる、という意味になります。  でも、人間の「自然」って、本能が自由に振る舞うだけではない気がします。本能もあり、理性もあるというのが現在の人間の脳の構造であるなら、どちらも有効に機能できている状態が、自然、なのかもしれません。 ◆ハメをはずす   漢字だと、羽目を外す、と書くようです。ただ、もともとは「馬銜」と書いたようです。「馬銜」というのは、馬の口に噛ませて馬の動きを制御するものだそうです。「馬銜」は「ハミ」とも「ハメ」とも読むそうです。そこから、「羽目」の漢字をあてること

次々に分岐しながら広がるように。

水が流れる先を探して隙間から隙間へとたどって流れていくように人生を生きてきた。傾きがあるからこそ次の場所に進めたのかもしれない。ずいぶん長い下り坂をくだってきたようだ。あちこちに曲がりながら流れやすい場所を探しながら。気がついたらこんな場所にいた。最初と今のつながりを辿ってもどこでどうやってここまでつながってきたのかわからない。でも植物の根が次々に分岐しながら広がるように時間は流れていく。途中で硬い石にぶつかればそこでまた分岐して先へ先へと水のある場所を求めて進んでいく。その水がどこに送られているのかも知らない。今ごろ地上では輝かしい太陽の光の下で花を咲かせているのかもしれない。冷たい雪の下で春を待っているのかもしれない。でもそんなことは知らない。今見えるのはどこまでも続く土の中の暗闇と時々ぶつかる石ばかりだ。今もまた石にぶつかって分岐して進んでいく。今いるのはあるいはこちらの根かもしれない。あるいはあちらの根かもしれない。分岐して土の暗闇の中へ進んでいったのはもしかしたら自分ではないだろうか。深い深い土の暗闇の中で触れあった水に手を添えてそっと抱きしめて溶けあう。 2018.12.18 him&any ©︎2018 him&any

「インターネットは世界に向けて開いた窓」

「インターネットは世界に向けて開いた窓」という言い方をひと昔前はよく見聞きしていたような気がする。 「インターネットは世界に向けて開いた窓」というのは本当にうまい表現で、自分に関して言えば、現状として部屋の中にいる自分を窓の外にさらけ出しているだけであって、自分の「視野」は自分の部屋の窓枠サイズの大きさでしかなく、特に視野が世界規模に広がったわけではない。 ツイッターのタイムラインはまさに自分が作った窓で、フォローしている数によってその窓枠のサイズが変わる。本当はもっと、とてつもない大きさの「流れ」が外にあるのだけど、自分がフォローすることで作り上げた窓枠の中を流れる世界しか見えない。 もちろんインターネットやツイッターやSNSがなければ知ることがなかった曲や絵や写真や文章や情報がたくさんあるから、それは(ほんの20年前には存在していなかった状況であり)とても素晴らしいと思っているけれど、自分で動いて色々なモノを見に行かなければ昔と比べて視野は広がってはいない。 しかも最近のwebサイトはYouTubeもツイッターも広告もその優秀さゆえに「興味がありそうなモノ」を絞りこんでオススメしてくれるから、あえてそこを避けていかないと「自分の興味」という小さなサイズの窓枠から覗いて見える「狭い世界」しか見えない。インターネットで世界は広がったようで、実は相変わらず閉じられている。自分の窓枠、つまり自分の世界の中に閉じ込められている(これはインターネットに限らず思考や認識が原因でもあると思うけれど)。 自分が自覚的に窓枠サイズを広げていかないとインターネットの利点をほとんど享受できていないのではないだろうか。ツールの進歩に、それを「使う」はずの自分が追いついていけていない。「使う」ことができていない。むしろ使われている気さえしてくる。なんだかとてももったいない気がする。 2018.12.16 him&any ©︎2018 him&any