スキップしてメイン コンテンツに移動

昔話と5W1H

昔話はすごい。
何かというと5W1Hがすごい。

昔話は導入部分で5W1Hをしっかりふまえているので
話に入り込む枠組みが一瞬で示される。

本当に最初の一瞬ですべて明示される。
これはたぶんビジネスにも応用できると思う。

さっそく昔話のスタートをみてみると

「むかしむかし(when)あるところに(where)
 おじいさんとおばあさんが(who)暮らしていました(what)」

ここで、すでに4Wが示されている。早い。
物語として「お話」するとき、なんと、最初の息継ぎまでに
ここまでもの情報を示している。早い。

そして2フレーズ目。

「おじいさんは山へ柴刈りに(why/how)
 おばあさんは川へ洗濯に(why/how)行きました」

これで5W1Hが完了する。
なんと、息継ぎほんの2回で5W1Hが完了する。

迅速、簡潔、明瞭このうえない。

これはビジネス向けの話法でもプレゼンでも
たぶん役に立つスキルだろうと思う。おそらく。きっと。

いちおう5W1Hを説明しておくと
when(いつ)
where(どこで)
who(だれが)
what(なにを)
why(なぜ)
how(どのように)
の頭文字をとった言い方で、説明の際に意識すると
わかりやすくなると言われている。

「竹取物語」でも
「今となっては昔の話だけど、竹取のオキナというおじいさんがいてさ、
 竹をとりながらいろいろと使って暮らしていたんだよね」
という部分で示されている。

そして昔話における5W1Hのさらにすごいところは
何といっても「実はほとんど何も言っていない」というところだ。
情報としてはかなり薄い5W1Hである。
それが逆に「汎用性の高さ」をもっているので、すごい。

「むかしむかし」→いつでもOK
「あるところに」→どこでもOK
「おじいさんとおばあさん」→だれでもOK
「暮らしていました」→何をしていてもOK
「柴刈り/洗濯」→ほかの生活手段や方法でもOK

ということで、どこの地域の物語としても通用する。

だからこそ、いろいろな場所で
「自分の土地、自分の先祖、自分にどこか関わりのある話」
として多くの人に語り継がれてきたのだろうと思う。
しかもその「汎用性の高さ」を活かして
土地や時代に合わせて形を変えながら。

いや本当はむしろ、さまざまな土地の固有の物語が
集積されていくうちに、固有名詞が、汎用性の高い言葉に
置き換わってきたのかもしれないけれど。

ビジネス的に応用というのは、
「もっともらしく」5W1Hを示すことで
何となく説得力を感じさせることができるけれど
実際には「汎用的な言い回しの応用」というパターンだった
ということも結構ある気がするというのが
応用ができる部分じゃないかと思う。
売る側の立場でも、買う側の立場でも。


「いつでも、場所を選ばず、さまざまなニーズに合わせて
 誰にとっても、最適なパフォーマンスを見せる、最新の○○○」
という感じで。

「○○○」のところは「歯ブラシ」でも「耳かき」でもよい。

売る立場だけの話ではなく買う立場としても
自分が納得できる理由が含まれていたら
理由として十分成り立つので、
「フィーリング的には買いたいけど買おうかどうか迷っている」ときには
背中をおしてくれるありがたいキーワードになる。
(それでどれだけ財布のひもをゆるめてきたことか)

2018.6.24 him&any

©him&any 2018

コメント

このブログの人気の投稿

him&any「恋がふりつもる夜」Cメロ win10 フォトで動画作成

him&any「恋がふりつもる夜」 紹介用ショート版 Cメロ YouTube動画と歌詞です。 Win10のフォトで3D効果をのせています。 ーーー歌詞ーーー 揺れる   不安と 希望に    惑い つまづいて 塞がる世界で    甘い 悲しい 夢をみていた ーーー --- 2018.11.8 him&any ©2018 him&any

Decemberや師走という12月の呼び方のさらに別名を考えてみた結果としての山下達郎

さて、 12月ですね。 英語では December です。 日本では「師走」ともいいますね。 「師」というのは僧侶のことらしく、 僧侶が忙しくて走り回っているから「師走」 という説もあるそうです。 あとは、四季が終わるという意味で「四極(シハツ)」 という説もあるそうです。 言葉の由来はおもしろいですね。 December  の由来はというと 10番目の月、という意味だそうです。 不思議ですね。 そこで 新しい12月の呼び方を考えてみました。 思いついたのがこちら↓ 「Tatsuro」 日本語表記だと「たつろう」ですね。 あの有名な山下達郎の「たつろう」です。 もう12月といえば必ず 山下達郎の「クリスマス・イブ」を聴くので この曲は「師走」の師くらい 街中を走り回っているのではないでしょうか。 この曲とても好きです。 2018.12.1 him&any ©︎2018 him&any

タガがはずれる・ハメをはずす・ハネをのばす 比較

◆前置き  自由詩「夢の中の配役」の中で、「理性のタガがはずれる」という言い方をしたときに、同時に浮かんだ3つの表現について比較してみます。  3つの表現とは、タガがはずれる、ハメをはずす、ハネをのばす、です。  あくまでも個人の感想です。語源の検証や、用例の正確さを保証する内容ではありません。あくまでも個人の感想ですので、例えばテストで、この3つの表現について意見を述べよ、という問題が出て、このブログを参考に答案を書いて、不正解だったとしても、責任は負えません。先生に、him&anyのブログにそう書いてあったのに、と言ってもおそらく効果はありません。むしろ逆効果かもしれません。ご注意ください。 ◆タガがはずれる  漢字だと、箍が外れる、と書くようです。こんな漢字だとは知りませんでした。日本語を勉強中の皆さん、この漢字を知らなくても、少なくとも数十年は問題なく日本で生活できることが今ここで証明されたので、ご安心ください。  意味は、しめつけや枠組みがなくなることのようです。ひつじ牧場の、囲いの柵がなくなるようなイメージですね。ひつじ達はどこにでも行くことができます。  理性のタガがはずれる、ということは、理性によるしめつけや枠組みがなくなる、ということです。理性にしめつけられているのは本能ですね。本能が自由に振る舞うことができる、という意味になります。  本能が自由に振る舞うということは、つまり、自然、ということでしょうか。いわゆる社会的規範や常識的行動、あるいは公序良俗といったものにとらわれない、ということになります。  「あいつはタガがはずれちゃったんだよ」なんて言うときは、何かの原因があって、振る舞いに良識を感じられなくなる、という意味になります。  でも、人間の「自然」って、本能が自由に振る舞うだけではない気がします。本能もあり、理性もあるというのが現在の人間の脳の構造であるなら、どちらも有効に機能できている状態が、自然、なのかもしれません。 ◆ハメをはずす   漢字だと、羽目を外す、と書くようです。ただ、もともとは「馬銜」と書いたようです。「馬銜」というのは、馬の口に噛ませて馬の動きを制御するものだそうです。「馬銜」は「ハミ」とも「ハメ」とも読むそうです。そこから、「羽目」の漢字をあてること

次々に分岐しながら広がるように。

水が流れる先を探して隙間から隙間へとたどって流れていくように人生を生きてきた。傾きがあるからこそ次の場所に進めたのかもしれない。ずいぶん長い下り坂をくだってきたようだ。あちこちに曲がりながら流れやすい場所を探しながら。気がついたらこんな場所にいた。最初と今のつながりを辿ってもどこでどうやってここまでつながってきたのかわからない。でも植物の根が次々に分岐しながら広がるように時間は流れていく。途中で硬い石にぶつかればそこでまた分岐して先へ先へと水のある場所を求めて進んでいく。その水がどこに送られているのかも知らない。今ごろ地上では輝かしい太陽の光の下で花を咲かせているのかもしれない。冷たい雪の下で春を待っているのかもしれない。でもそんなことは知らない。今見えるのはどこまでも続く土の中の暗闇と時々ぶつかる石ばかりだ。今もまた石にぶつかって分岐して進んでいく。今いるのはあるいはこちらの根かもしれない。あるいはあちらの根かもしれない。分岐して土の暗闇の中へ進んでいったのはもしかしたら自分ではないだろうか。深い深い土の暗闇の中で触れあった水に手を添えてそっと抱きしめて溶けあう。 2018.12.18 him&any ©︎2018 him&any

「インターネットは世界に向けて開いた窓」

「インターネットは世界に向けて開いた窓」という言い方をひと昔前はよく見聞きしていたような気がする。 「インターネットは世界に向けて開いた窓」というのは本当にうまい表現で、自分に関して言えば、現状として部屋の中にいる自分を窓の外にさらけ出しているだけであって、自分の「視野」は自分の部屋の窓枠サイズの大きさでしかなく、特に視野が世界規模に広がったわけではない。 ツイッターのタイムラインはまさに自分が作った窓で、フォローしている数によってその窓枠のサイズが変わる。本当はもっと、とてつもない大きさの「流れ」が外にあるのだけど、自分がフォローすることで作り上げた窓枠の中を流れる世界しか見えない。 もちろんインターネットやツイッターやSNSがなければ知ることがなかった曲や絵や写真や文章や情報がたくさんあるから、それは(ほんの20年前には存在していなかった状況であり)とても素晴らしいと思っているけれど、自分で動いて色々なモノを見に行かなければ昔と比べて視野は広がってはいない。 しかも最近のwebサイトはYouTubeもツイッターも広告もその優秀さゆえに「興味がありそうなモノ」を絞りこんでオススメしてくれるから、あえてそこを避けていかないと「自分の興味」という小さなサイズの窓枠から覗いて見える「狭い世界」しか見えない。インターネットで世界は広がったようで、実は相変わらず閉じられている。自分の窓枠、つまり自分の世界の中に閉じ込められている(これはインターネットに限らず思考や認識が原因でもあると思うけれど)。 自分が自覚的に窓枠サイズを広げていかないとインターネットの利点をほとんど享受できていないのではないだろうか。ツールの進歩に、それを「使う」はずの自分が追いついていけていない。「使う」ことができていない。むしろ使われている気さえしてくる。なんだかとてももったいない気がする。 2018.12.16 him&any ©︎2018 him&any