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逃げる場所は


逃げる場所は
誰もいないところがいい

早く 早く

僕はそこで涙を
流していたいだけなんだ

逃げる場所は
誰もいないところがいい

人ごみの中がいい

街の中 網の目の中
暗い暗い 人ごみの中がいい

そこなら
いる人は皆 いないじゃないか

あるものは全て ないじゃないか

僕はそこで涙を
流していたいだけなんだ

誰もいない人ごみの中へ

走って 走って

早く 早く

苦しい心を 胸の中の痛みを
服の上からつかみながら

走って 走って

逃げよう 誰も いない沈黙の中へ

音楽で耳を 塞いでしまおう
誰もいない音楽の中へ 塞いでしまおう

僕はそこで涙を
流していたいだけなんだ

誰もいない 冷たい人ごみの


2017.12.8 him&any


©2017 him&any

コメント

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ごんぎつね 解釈

突然ですが、 『ごんぎつね』(新美南吉)の解釈をしてみました。 (個人的な想像をかなり含みます) 「『ごんぎつね』は「兵十」による「ごん」への哀悼の物語である。」 これが結論です。 そう思った理由は冒頭の一行です。 「これは、わたしが小さいときに村の茂平というおじいさんからきいたお話です」 この物語はこの文章から始まります。 つまり、この物語の「語り手」は「わたし」です。 「わたし」は「茂平というおじいさん」からこの話を聞き、 それを、読者に向かって語ります。 そのため、物語の中の言葉はすべて「わたし」の語っている言葉です。 兵十の言葉も、ごんの言葉も「わたし」の言葉です。 「小さいとき」に「茂平というおじいさん」からきいたお話を 大人になった「わたし」が語っているため、物語全体には「わたし」による 再構築も含まれることになります。 「わたし」が『もと』にしたお話しは「茂平というおじいさん」のお話しです。 では「茂平というおじいさん」がさらに『もと』にした話は誰が語ったのか? 「茂平」は誰からこの話を聞いたのか? これは本文にでてこないので分かりません。個人的には、 兵十や加平など「物語のリアルタイムの時間帯にいた人」から聞いたのだと推測します。 それでは、 「物語のリアルタイムの時間帯にいた人が茂平に語ったお話」 の原型をつくったのは誰か? それは「兵十」です。この物語を体験したのは唯一、兵十だけです。 兵十が誰かに自分の体験を物語ったのが発端となります。 時系列でまとめると、 兵十がごんとの出来事を体験する(きっかけ) ↓ 兵十が出来事の意味を考える(話の原型) ↓ その体験を誰かに話す(原型の完成、および「物語」化) ↓ 茂平というおじいさんがその話を聞く(茂平の物語となる) ↓ わたしが茂平からその話を聞く(わたしの物語となる) という流れです。 つまり、この物語の全ての元は、兵十です。 物語の中で、 兵十と加助が話をしているのをごんが聞いている、 という場面がありますが、 兵十は、「自分と加助が話をしているのをごんが聞いていた」 ということは知りません。 「ごんが実は葬式の場面を目撃した」ことも、 「ごんが何をどう思ったのか」も知りません。

タガがはずれる・ハメをはずす・ハネをのばす 比較

◆前置き  自由詩「夢の中の配役」の中で、「理性のタガがはずれる」という言い方をしたときに、同時に浮かんだ3つの表現について比較してみます。  3つの表現とは、タガがはずれる、ハメをはずす、ハネをのばす、です。  あくまでも個人の感想です。語源の検証や、用例の正確さを保証する内容ではありません。あくまでも個人の感想ですので、例えばテストで、この3つの表現について意見を述べよ、という問題が出て、このブログを参考に答案を書いて、不正解だったとしても、責任は負えません。先生に、him&anyのブログにそう書いてあったのに、と言ってもおそらく効果はありません。むしろ逆効果かもしれません。ご注意ください。 ◆タガがはずれる  漢字だと、箍が外れる、と書くようです。こんな漢字だとは知りませんでした。日本語を勉強中の皆さん、この漢字を知らなくても、少なくとも数十年は問題なく日本で生活できることが今ここで証明されたので、ご安心ください。  意味は、しめつけや枠組みがなくなることのようです。ひつじ牧場の、囲いの柵がなくなるようなイメージですね。ひつじ達はどこにでも行くことができます。  理性のタガがはずれる、ということは、理性によるしめつけや枠組みがなくなる、ということです。理性にしめつけられているのは本能ですね。本能が自由に振る舞うことができる、という意味になります。  本能が自由に振る舞うということは、つまり、自然、ということでしょうか。いわゆる社会的規範や常識的行動、あるいは公序良俗といったものにとらわれない、ということになります。  「あいつはタガがはずれちゃったんだよ」なんて言うときは、何かの原因があって、振る舞いに良識を感じられなくなる、という意味になります。  でも、人間の「自然」って、本能が自由に振る舞うだけではない気がします。本能もあり、理性もあるというのが現在の人間の脳の構造であるなら、どちらも有効に機能できている状態が、自然、なのかもしれません。 ◆ハメをはずす   漢字だと、羽目を外す、と書くようです。ただ、もともとは「馬銜」と書いたようです。「馬銜」というのは、馬の口に噛ませて馬の動きを制御するものだそうです。「馬銜」は「ハミ」とも「ハメ」とも読むそうです。そこから、「羽目」の漢字をあてること

CPUとメモリ(RAM)とHDDの関係は、脳神経と海馬と脳全体の関係に似ている

タイトルの通りです。思い付きです。 別に学術的な考察や実験や理論などはありません。 でも、なんとなく、そんな感じがしませんか? 【パソコン】 入力 ↓ CPUで処理 一時的にメモリ(RAM)を使用 ↓ 必要なものはHDDで長期記録 【人】 刺激 ↓ 脳神経を使って処理 海馬に一時的に記憶 ↓ 必要なものは脳全体で記憶 (主に大脳新皮質なのかな) この類似性って とても不思議な感じがしませんか 僕は興味を惹かれます。 パソコンを作っている人たちが 人間の記憶方法をモデルにパソコンを作っているのか。 あるいは、無意識のうちに 人間の記憶システムをモデルにしていて そして、いつのまにか 人間の記憶方法と同じようなシステムを 構築してしまったのか。 とても興味を惹かれます。 最近はHDDではなくSSDをメインの記憶媒体として 使用するパソコンも増えてきました。 SSDはフラッシュメモリなどと 同じような仕組みらしいので 海馬に近いのでしょうか。 HDDに書き込みをしないぶんだけ 処理時間が速くなるようです。 これって、今の人間の記憶方法にも 似ている気がしませんか? 昔は、きちんと自分で暗唱できるくらい 文章や語句の意味などを読んだり書いたりして覚えたものです。 ようするにHDDに一生懸命書きこんでいたわけです。 でも最近はスマホやパソコンで調べられるから あまりきっちり覚えこまなくてもいい。 覚えこむことに時間をとらずに サクサクと調べて処理して次に進むほうがスムーズ。 記録するならパソコンに入れておけばいい。 音声でもPDFでも。 なんならメモしたものがそのままクラウドに保存できて さらにそのまま共有できて更新できますね。 そんな処理方法に変わってきている気がします。 これってつまり、 海馬部分だけ(比較的短い記憶だけ)を活用して 脳全体の記憶はデジタルに任せている ↓ SSDだけを活用して 必要な記憶はHDDや外付け媒体などに任せている というのと 似ている気がしませんか。 そういう感じの類似性に 何となく、興味を惹かれました。 him&anyの2018年最初のブログ記事でした。 今年もよろしく

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