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光はどこに消えるのか?


光はどこに消えるのか? 不思議に思いませんか?
この文章には結論はありません。回答も考察もありません。
ただただ疑問を疑問として書いているだけです。

壁に向かって水をかければ、水は壁に当たります。
ほとんどはそのまま床に落ちて水たまりになります。
壁に染み込む水もあります。
床に落ちた水もそのうちに床にしみこんだり蒸発したりして
姿は見えなくなります。

でもそれは場所や形を変えるだけで
消えてなくなるのではありません。

床にしみこんでしまえば、水は見えなくなります。
でもそれは床の中にあるのです。
ただ見えなくなるだけです。

蒸発した水も姿を変えて見えなくなりますが
それは空気の中にあるのです。
空の高いところで雲になることもあります。
寒い冬の朝に結露として窓に現れることもあります。

では光はどこに消えるのか?

暗い部屋で懐中電灯をつけると
暗闇の中に一筋の光が浮かび、その先端は壁にぶつかります。
壁には光の丸い輪ができます。

懐中電灯を消すと部屋は真っ暗になります。
光はどこにも見当たりません。
瞬時に真っ暗になります。

光はどこに消えるのか?
壁に染み込む?床に落ちる?床に染み込む?
蒸発する?再び結露する?
そんなことはありません。
水とはまったく違うものだから。

じゃああの光の輪はなんだったのか?
暗闇の部屋の一筋の光はなんだったのか?
懐中電灯から何かが飛び出していたのではなかったのか?

そもそも光とは何なのか?
そこから考えないと答えはでません。
考えの手がかり① 光は光速というくらいとても速い。
考えの手がかり② 光は4次元(5次元?)と関係がある?
この2つの手がかりにヒントがあるのではないかと疑っています。

光速はあまりにも速すぎて見えないだけではないのか?
本当は壁にぶつかって落ちたりしみこんだり蒸発したりしているのに
あまりに速すぎて見えていないだけではないのか?
あるいは染み込む先や蒸発する先が今我々が生活している世界とは
別の次元で現象しているため
この3次元(4次元?)世界に住む我々には単に認識できていない
だけなのではないのか? なんてことを疑っています。

3次元(4次元?)などと書いているのは
今この世界が何次元なのか自分がよくわかっていないからです。
タテ、ヨコ、高さ、時間の4次元世界なのか?
時間は含めずに3次元世界なのか? 僕にはよくわかりません。
「タテ、ヨコ、高さ」と「時間」って
全然違うもののように感じられるのに同じ「次元」という単位で
数えていいものなの?と思ってしまい、何次元かわからなくなるのです。
光にはたぶんタテもヨコも高さも無いような気がするから
光は「時間」と同じく、もうひとつふたつ別の次元まで行っていたとしても
おかしくないんじゃないかなと思います。

2018.2.14 him&any


©︎2018 him&any

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