スキップしてメイン コンテンツに移動

タガがはずれる・ハメをはずす・ハネをのばす 比較

◆前置き


 自由詩「夢の中の配役」の中で、「理性のタガがはずれる」という言い方をしたときに、同時に浮かんだ3つの表現について比較してみます。

 3つの表現とは、タガがはずれる、ハメをはずす、ハネをのばす、です。

 あくまでも個人の感想です。語源の検証や、用例の正確さを保証する内容ではありません。あくまでも個人の感想ですので、例えばテストで、この3つの表現について意見を述べよ、という問題が出て、このブログを参考に答案を書いて、不正解だったとしても、責任は負えません。先生に、him&anyのブログにそう書いてあったのに、と言ってもおそらく効果はありません。むしろ逆効果かもしれません。ご注意ください。


◆タガがはずれる


 漢字だと、箍が外れる、と書くようです。こんな漢字だとは知りませんでした。日本語を勉強中の皆さん、この漢字を知らなくても、少なくとも数十年は問題なく日本で生活できることが今ここで証明されたので、ご安心ください。

 意味は、しめつけや枠組みがなくなることのようです。ひつじ牧場の、囲いの柵がなくなるようなイメージですね。ひつじ達はどこにでも行くことができます。

 理性のタガがはずれる、ということは、理性によるしめつけや枠組みがなくなる、ということです。理性にしめつけられているのは本能ですね。本能が自由に振る舞うことができる、という意味になります。

 本能が自由に振る舞うということは、つまり、自然、ということでしょうか。いわゆる社会的規範や常識的行動、あるいは公序良俗といったものにとらわれない、ということになります。

 「あいつはタガがはずれちゃったんだよ」なんて言うときは、何かの原因があって、振る舞いに良識を感じられなくなる、という意味になります。

 でも、人間の「自然」って、本能が自由に振る舞うだけではない気がします。本能もあり、理性もあるというのが現在の人間の脳の構造であるなら、どちらも有効に機能できている状態が、自然、なのかもしれません。


◆ハメをはずす


  漢字だと、羽目を外す、と書くようです。ただ、もともとは「馬銜」と書いたようです。「馬銜」というのは、馬の口に噛ませて馬の動きを制御するものだそうです。「馬銜」は「ハミ」とも「ハメ」とも読むそうです。そこから、「羽目」の漢字をあてることになったそうです。

 もともとの「馬を制御する」という意味から分かるように「羽目を外す」というのは、制御が効かなくなる、という意味なので、タガがはずれる、とかなり近い意味に感じます。

 ただ、「羽目を外す」という漢字の方が、個人的に、この言葉のイメージに合うような気がします。羽根がはえちゃって、ふわーっと、気持ちよく浮かび上がってしまって、それが限度を越えて、何か失敗をしちゃう、というイメージが「羽目を外す」という漢字から想像することができます。

 「いいか、羽目を外すなよ」という言い方は、いいことがあったからって調子に乗って失敗するなよ、というニュアンスになります。学校の先生に「夏休みだからって、羽目を外すなよ」と言われるのも、そういうニュアンスです。「タガが外れる」だと、調子のいい悪いにかかわらず、何か致命的に、規制がかからない状態になるようなイメージでしょうか。

 羽目を外す、というのはけっこう緩やかな場面で使う気がします。タガが外れる、の方があまり緩さがない気がします。


◆ハネをのばす


 羽根をのばす、という漢字です。漢字のとおりですが、鳥が羽をのばして飛ぶように、自由にのびのびと振る舞う、という意味です。ただ、鳥が羽を伸ばして飛ぶのは、鳥の主観においては別に自由にのびのびしているわけじゃないんだよ、と、鳥の側から意見があるかもしれませんね。ただそれは生まれつきの機能だから、そうなっているものなんだよ、と鳥は言うかもしれません。

 ちょっと話がそれますが、鳥と魚は人間よりも3次元の認識に優れているそうです。確かに人間は基本的には縦と横(つまり、前後と左右)を行動の基本としていますね。鳥や魚はそれに加えて高さ(上と下)の認識を常に行っている、ということのようです。上や下から天敵が来るかもしれないし、下から来たら上に逃げるとか、右斜め上に逃げるとか、そういう行動をとるから、3次元(3D)の認識力が高いのかもしれませんね。

 さらに話がそれますが、3次元の次は4次元です。4次元というのは縦、横、高さに加えて時間が入るようですが、突然、時間って入るのが前々から疑問でした。いきなり話題が変わるというか、概念が違う気がするのですが、物理学のほうから見ると、そうでもないのでしょうか。1次元に住む生き物には2次元は理解できないそうです。人間は3次元に住んでいるので、残念ながら4次元は理解できません。鳥や魚は、3次元についてすぐれた認識力を持っているそうなので、もしかしたら、4次元を理解する素質も人間より高いのかもしれませんね。

 話を戻します。羽根を伸ばす、というのはのびのびと振る舞う、という意味なので、とても自由でポジティブなイメージですね。ハメをはずす、だと抑えがきかずに失敗するというようなネガティブな表現ですが、羽根を伸ばす、というのは気分が明るくなるような意味の自由さ、というポジティブなイメージです。

 ただし、「羽根を伸ばしすぎるなよ」というと、自由にやりすぎるなよ、という意味になります。海外に旅行に行って、羽根を伸ばすのは良いですが、羽根を伸ばしすぎて、限度を越えるような振る舞いをすると、「あいつは海外で羽目をはずした」と言われます。帰国してもそのまま羽目を外していると、「あいつは海外に行ったせいでタガがはずれた」と言われることになります。


◆まとめ


 ということで、パッと見、似たような言葉ですが、だいぶ意味が違いますね。「夢の中の配役」では、「理性の」という言葉をつけたかったので、いちばん合いそうな「タガがはずれる」という言葉を使いました。

 言葉って本当におもしろいですね。


2017.3.12 him&any


©2017 him&any


 

コメント

このブログの人気の投稿

him&any「恋がふりつもる夜」Cメロ win10 フォトで動画作成

him&any「恋がふりつもる夜」 紹介用ショート版 Cメロ YouTube動画と歌詞です。 Win10のフォトで3D効果をのせています。 ーーー歌詞ーーー 揺れる   不安と 希望に    惑い つまづいて 塞がる世界で    甘い 悲しい 夢をみていた ーーー --- 2018.11.8 him&any ©2018 him&any

僕は失意の中で

音楽の中に沈んでいるのだった 僕は失意の中で それを聴くのだった 忘れていた それは僕じゃなくて やさしい風だった それは僕じゃなくて 忘れていた 僕は失意の中で 音楽に沈んでいるのだった それは僕じゃなくて あたたかい声だった その何かも届かないところで 沈み込んで冷たく固まっている 魂だからこそ 聴こえるのだった 僕は失意の中でいつもずっと それは僕じゃなくて

Decemberや師走という12月の呼び方のさらに別名を考えてみた結果としての山下達郎

さて、 12月ですね。 英語では December です。 日本では「師走」ともいいますね。 「師」というのは僧侶のことらしく、 僧侶が忙しくて走り回っているから「師走」 という説もあるそうです。 あとは、四季が終わるという意味で「四極(シハツ)」 という説もあるそうです。 言葉の由来はおもしろいですね。 December  の由来はというと 10番目の月、という意味だそうです。 不思議ですね。 そこで 新しい12月の呼び方を考えてみました。 思いついたのがこちら↓ 「Tatsuro」 日本語表記だと「たつろう」ですね。 あの有名な山下達郎の「たつろう」です。 もう12月といえば必ず 山下達郎の「クリスマス・イブ」を聴くので この曲は「師走」の師くらい 街中を走り回っているのではないでしょうか。 この曲とても好きです。 2018.12.1 him&any ©︎2018 him&any

him&any 恋がふりつもる夜 歌詞

それはまるで おとぎ話のような やわらかく光る風に 包まれて静寂あふれる夜 あきらめてひとり 歩く夜の足もと ぽつり 見上げるとまるで夢の ような景色が あふれたんだ そう それは降り落ちる恋の 見える夜 あちらこちらに 切ない うれしいが 今はもう 三日月も星座も見えないけれど こんな 恋がふりつもる夜 あなたはまぶたをふせて 恋がふりつもる夜 あなたは何を悲しむの 胸の奥に 深く閉じ込めて うつむいた横顔 ここには もう いないから 手をのばさなくていい 触れそうなそばで届かなかった そう それは心の飽和した夜 あふれた痛みが 洗い流し 透き通る その弱さも やさしさも 鮮やかに浮かぶような こんな 恋がふりつもる夜 寄り添う傘 遠く揺れて 恋がふりつもる夜 それは たぶんそのままでいいと 声にならない 歌かすれたまま 揺れる不安と希望に 惑いつまずいて 塞がる世界で甘い哀しい夢を見ていた 聞こえない 見えないような 平気さを装って 可能性の残像 それは そっとそのままにして 風を見送って 星の輝くほうへ him&any 2018.12.15 ©2018 him&any  

「インターネットは世界に向けて開いた窓」

「インターネットは世界に向けて開いた窓」という言い方をひと昔前はよく見聞きしていたような気がする。 「インターネットは世界に向けて開いた窓」というのは本当にうまい表現で、自分に関して言えば、現状として部屋の中にいる自分を窓の外にさらけ出しているだけであって、自分の「視野」は自分の部屋の窓枠サイズの大きさでしかなく、特に視野が世界規模に広がったわけではない。 ツイッターのタイムラインはまさに自分が作った窓で、フォローしている数によってその窓枠のサイズが変わる。本当はもっと、とてつもない大きさの「流れ」が外にあるのだけど、自分がフォローすることで作り上げた窓枠の中を流れる世界しか見えない。 もちろんインターネットやツイッターやSNSがなければ知ることがなかった曲や絵や写真や文章や情報がたくさんあるから、それは(ほんの20年前には存在していなかった状況であり)とても素晴らしいと思っているけれど、自分で動いて色々なモノを見に行かなければ昔と比べて視野は広がってはいない。 しかも最近のwebサイトはYouTubeもツイッターも広告もその優秀さゆえに「興味がありそうなモノ」を絞りこんでオススメしてくれるから、あえてそこを避けていかないと「自分の興味」という小さなサイズの窓枠から覗いて見える「狭い世界」しか見えない。インターネットで世界は広がったようで、実は相変わらず閉じられている。自分の窓枠、つまり自分の世界の中に閉じ込められている(これはインターネットに限らず思考や認識が原因でもあると思うけれど)。 自分が自覚的に窓枠サイズを広げていかないとインターネットの利点をほとんど享受できていないのではないだろうか。ツールの進歩に、それを「使う」はずの自分が追いついていけていない。「使う」ことができていない。むしろ使われている気さえしてくる。なんだかとてももったいない気がする。 2018.12.16 him&any ©︎2018 him&any

悲と恋 漢字の由来や成り立ち そして意味のつながり そして自分の曲

悲しい と 恋しい 漢字を見ていて何となく似ているなあと 思いました。 下の「心」が同じというだけですが。 成り立ちを調べると 「悲しい」の「非」のところは ・羽を広げた形=左右に分かれる とか ・互いに背を向けた人=左右に分かれる とか そういう意味があるようです。 それで左右に分かれる心で悲しい ってことみたいですね。 「恋しい」の「亦」のところは 旧字の「戀」でみると「糸+言+糸」だそうです。 ・糸が絡まったような様子 とか ・糸を引きあうような様子 とか そういう意味があるそうです。 ということで絡まるように引き合う心で恋しい っていうことになるんでしょうね。 悲は「左右に分かれる」 恋が「引き合い、絡まる」 ということで成り立ちや由来からすると 正反対なんですね。 もちろん、意味も「悲しい」と「恋しい」は 反対な気がしますが、 でも、意味は似ている気がしませんか。 僕は似ている気がします。 恋をすると悲しいとか、 悲しみは恋があればこそ、みたいなところないですか。 感情としてもとても似ている気がするんですね。 だから日本語でいう「愛」と「恋」は 決定的に違う気がします。 (英語ではたぶんどちらも「LOVE」だと思います) 恋とはたぶん悲しいものなんです。 なぜなら「恋をしている」というのは 基本的に相手と「離れている」からです。 「恋人」だって結婚している人ではないので そのふたりは、まだ離れているわけです。法律的にも。 それに「恋しく思う」のは その対象が自分から離れているからこそ 「恋しく」感じるのではないかなと思います。 ずっとそばにいて、深いつながりを感じられている状態は もう「恋」とは呼ばない気がします。 だからこそ「恋」は手に届かなくて遠くにあって だからこそ綺麗にみえるものなのではないでしょうか。 それはそれで「恋」の良さなんだと思います。 ということで、ツイッターに書いた短詩「悲恋」 ↓ 「なぜ悲しいのですか」 「まだ恋しいからです」 ということで成り立ちや由来は反対だけど 意味としては反対ではなくつながりがあるような気がする 「悲しい」と「恋しい」についての考察でした。 him&a

次々に分岐しながら広がるように。

水が流れる先を探して隙間から隙間へとたどって流れていくように人生を生きてきた。傾きがあるからこそ次の場所に進めたのかもしれない。ずいぶん長い下り坂をくだってきたようだ。あちこちに曲がりながら流れやすい場所を探しながら。気がついたらこんな場所にいた。最初と今のつながりを辿ってもどこでどうやってここまでつながってきたのかわからない。でも植物の根が次々に分岐しながら広がるように時間は流れていく。途中で硬い石にぶつかればそこでまた分岐して先へ先へと水のある場所を求めて進んでいく。その水がどこに送られているのかも知らない。今ごろ地上では輝かしい太陽の光の下で花を咲かせているのかもしれない。冷たい雪の下で春を待っているのかもしれない。でもそんなことは知らない。今見えるのはどこまでも続く土の中の暗闇と時々ぶつかる石ばかりだ。今もまた石にぶつかって分岐して進んでいく。今いるのはあるいはこちらの根かもしれない。あるいはあちらの根かもしれない。分岐して土の暗闇の中へ進んでいったのはもしかしたら自分ではないだろうか。深い深い土の暗闇の中で触れあった水に手を添えてそっと抱きしめて溶けあう。 2018.12.18 him&any ©︎2018 him&any