スキップしてメイン コンテンツに移動

易きに流れる

1、起承転結の「起」


 人は易きに流れるとはよく言ったもので、こうやってブログやツイッターを始めてみると、文章を書いてクリックするだけで投稿ができるのだから、これはとても取り組みやすく、気がついたらこちらばかりに時間を割いてしまう。


2、起承転結の「承」


 それはそれでいいのではないかと思うところもある。なぜならこちらは容易いというだけではなく、おそらくは脳の中で楽しいとか気持ちいいとかそういう報酬系が反応しているのだと思う。苦痛であればこんなに時間を割くこともないだろう。


3、起承転結の「承」その2


 しかもこの作業の中では、空想の中を立ち歩くような感覚を覚える。意識があちら側の世界に足を踏み入れているのだと思う(村上春樹風の言い方になってしまった)。それがとてつもなく心地よい。時間を割いているというよりは、時間を忘れて取り組んでいる、ということになるだろう。


4、起承転結の「承」その3


 このような作業をしていると通常の意識では立ち入ることのできない場所まで踏み込むことがある。そこで目にした景色や、手のひらに乗せた言葉は、特別なもののように感じる。それはやはり通常の世界では得られないものなのだろうと思う。それはこの作業の生み出す価値だと思う。だから、それはそれでいいのではないか、と思うところがあるのだろう。


5、起承転結の「転」


 ただ、それが、楽しい、心地よい、だけではある一定のラインまでしか行くことができない。その先には苦痛や深い脱力を経なければ越えることのできないラインがある。その先にはおそらく自分自身の心だけではなく、他の誰かの心に触れることのできる景色や、言葉が存在しているのだろうと思う。そこまでは、まだ踏み込めない。


6、起承転結の「転」その2


 おそらく、だからこそ、この中途半端な場所にとどまっていられるのだろうと思う。そして、おそらく、だからこそ、楽曲作りにおいては、そのラインを身をもって味わっているところなのだろうと思う。だから何だかんだと理由をつけてはそこから遠ざかっている。


7、起承転結の「転」その3


 楽曲作りにおいて、そのラインが何なのかと言えば、もう改めて考えるまでもなく、知識と技術の蓄積だろう。それが足りない。集中力とか精神力とか気とか念とか想いとかそういったものはもう古びれてしまっているし、かすれて、ほどけてしまっている。そんなものをいくら振りかざしていても、たどり着くべき場所にはたどり着いてしまっているから、それらによって見える景色などもうこの先には何もない、と思う。

8、起承転結の「結」


易きに流れる、そのメリットとデメリットを感じている今日この頃。


2017.3.3 him&any


©2017 him&any


コメント

このブログの人気の投稿

タガがはずれる・ハメをはずす・ハネをのばす 比較

◆前置き  自由詩「夢の中の配役」の中で、「理性のタガがはずれる」という言い方をしたときに、同時に浮かんだ3つの表現について比較してみます。  3つの表現とは、タガがはずれる、ハメをはずす、ハネをのばす、です。  あくまでも個人の感想です。語源の検証や、用例の正確さを保証する内容ではありません。あくまでも個人の感想ですので、例えばテストで、この3つの表現について意見を述べよ、という問題が出て、このブログを参考に答案を書いて、不正解だったとしても、責任は負えません。先生に、him&anyのブログにそう書いてあったのに、と言ってもおそらく効果はありません。むしろ逆効果かもしれません。ご注意ください。 ◆タガがはずれる  漢字だと、箍が外れる、と書くようです。こんな漢字だとは知りませんでした。日本語を勉強中の皆さん、この漢字を知らなくても、少なくとも数十年は問題なく日本で生活できることが今ここで証明されたので、ご安心ください。  意味は、しめつけや枠組みがなくなることのようです。ひつじ牧場の、囲いの柵がなくなるようなイメージですね。ひつじ達はどこにでも行くことができます。  理性のタガがはずれる、ということは、理性によるしめつけや枠組みがなくなる、ということです。理性にしめつけられているのは本能ですね。本能が自由に振る舞うことができる、という意味になります。  本能が自由に振る舞うということは、つまり、自然、ということでしょうか。いわゆる社会的規範や常識的行動、あるいは公序良俗といったものにとらわれない、ということになります。  「あいつはタガがはずれちゃったんだよ」なんて言うときは、何かの原因があって、振る舞いに良識を感じられなくなる、という意味になります。  でも、人間の「自然」って、本能が自由に振る舞うだけではない気がします。本能もあり、理性もあるというのが現在の人間の脳の構造であるなら、どちらも有効に機能できている状態が、自然、なのかもしれません。 ◆ハメをはずす   漢字だと、羽目を外す、と書くようです。ただ、もともとは「馬銜」と書いたようです。「馬銜」というのは、馬の口に噛ませて馬の動きを制御するものだそうです。「馬銜」は「ハミ」とも「ハメ」とも読むそうです。そこから、「羽目」の漢字をあ...

ASKA「止まった時計」

ASKAの「止まった時計」という曲が好きである。 わりとスローテンポなバラード(?)であるが なんだか神秘的で幽玄な雰囲気のイントロから始まり オーケストラ(?)のようなアレンジが ぐうっと心をもっていくように感じるのである。 特に後半の最後のサビあたりのもっていくパワーはものすごい。 ASKAの独特の「ぅぅわぁぁぁああ」という感じの 歌声によるもっていくパワーとストリングスが重なって 「もっていかれる」のである。 ちなみにイントロがけっこう長くて 歌が始まるまで約1分20秒。 これを長いと感じるかどうかであるが このイントロをジックリ聴くことでASKAの歌いだしの第一声に すーっと入っていくことができるのだと思う。 第一声の歌詞の内容的にもこの長いイントロは意味を含む気がする。 なのでこのイントロは「必要」で「必然的」な長さなのだと思う。 これはたぶん「ものすごく長い小説」を読むときの気持ちに 近いかもしれない。 小説世界の内容の良し悪しはもちろんではあるが、 その「長い小説」の場合は、「長さ」が重要なので、 その「長さ」を読者として「通過」することで 目にすることができる世界があるのである(たぶん)。 歌詞の内容は恋愛の歌詞であると思う。 もしかしたら恋愛という設定を借りたもっと別の 意味があるのかもしれないけどそれは私には分からない。 たぶん女性目線での恋愛に関しての歌詞だと思うけれど それを女性が聴くと確かにそうだねと思うのだろうか。 あるいはもっとあっさりしているよと思うのだろうか。 これだけ時間と心を費やして聴く曲であるということは 夜にじっとり聴くのにとても良い曲なので、 忙しい時にサクッとサビまで聴きたいような気持ちの時は あまりセレクトされない曲である(私の中で)。 この曲は「SCENE2」というアルバムに収録されている。 調べてみたら1991年。CHAGE&ASKAの「SEY YES」という曲が 爆発的にヒットした年でもあるらしいので、 おそらくASKAのソロアルバムの中では一般的な認知度も 高いかもしれない。 このアルバムには他にもいい曲が多い。 私の人生においてもときどき「止まった」期間があるように思う。 今はたぶんその中にいる気がする。 ...

違い 2

ああ でも 自分が気がつかないせいで 誰かが 傷ついていることも あるか それはもったいないなんて 言ってられないな 責めたり責められたり するな 気がつかないままでいることで 誰かが何かを背負うなら 気がつかないままでいることそのものが 誰かへの刃になってしまうね そんな刃を振りかざして 振りかざして 手触りのいいことばっかり 言っていてもさ ねえ 本当に気がつかないの? 本当に 気がつかないだけなの? 2017.1.27 him&any ©️2017 him&any

僕は失意の中で

音楽の中に沈んでいるのだった 僕は失意の中で それを聴くのだった 忘れていた それは僕じゃなくて やさしい風だった それは僕じゃなくて 忘れていた 僕は失意の中で 音楽に沈んでいるのだった それは僕じゃなくて あたたかい声だった その何かも届かないところで 沈み込んで冷たく固まっている 魂だからこそ 聴こえるのだった 僕は失意の中でいつもずっと それは僕じゃなくて

次々に分岐しながら広がるように。

水が流れる先を探して隙間から隙間へとたどって流れていくように人生を生きてきた。傾きがあるからこそ次の場所に進めたのかもしれない。ずいぶん長い下り坂をくだってきたようだ。あちこちに曲がりながら流れやすい場所を探しながら。気がついたらこんな場所にいた。最初と今のつながりを辿ってもどこでどうやってここまでつながってきたのかわからない。でも植物の根が次々に分岐しながら広がるように時間は流れていく。途中で硬い石にぶつかればそこでまた分岐して先へ先へと水のある場所を求めて進んでいく。その水がどこに送られているのかも知らない。今ごろ地上では輝かしい太陽の光の下で花を咲かせているのかもしれない。冷たい雪の下で春を待っているのかもしれない。でもそんなことは知らない。今見えるのはどこまでも続く土の中の暗闇と時々ぶつかる石ばかりだ。今もまた石にぶつかって分岐して進んでいく。今いるのはあるいはこちらの根かもしれない。あるいはあちらの根かもしれない。分岐して土の暗闇の中へ進んでいったのはもしかしたら自分ではないだろうか。深い深い土の暗闇の中で触れあった水に手を添えてそっと抱きしめて溶けあう。 2018.12.18 him&any ©︎2018 him&any

夢の中の配役

夢の中に 知らない人が出てきて そこではとても親しい人だった あの人は誰だったんだろう テレビで見かけた人かもしれない 夢の中で わずらわしい問題を乗り越え あわただしい時間が過ぎ去る その人とともに 乗り越え 過ぎ去る 目覚めた直後は まだ余韻の中にいる 目覚めの中で 夢の中の配役は ベストな配役だったと思っている 今はもう その人の顔も思い出せない 夢の中の配役は 理性のタガがはずれるから 思いがけない配役で 思いつけないベストな演出を 見せてくれるんだろう 2017.3.9 him&any ©︎2017 him&any

洗練されたセンスあるギャグ

3月9日にツイッターで「オヤジギャグ」について 投稿した内容をひとつにまとめました。 ひと続きの文章として読む方が文意が分かりやすいかと思って。 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□  オヤジギャグは時に非常に大切なものだと思います。もちろん、日常的に不快思われている方もいらっしゃることも認識しています。  例えば、誰かに何かを言って欲しい場面があります。でも、誰が何を言っても火種になりそうな、そんな場面です。そのような時にオヤジギャグのセンスが問われることになります。  どちらの味方もしない、形勢に影響を与えない。でもその場の流れはなんとなく拾っている。それでいて肯定も否定もしない、可もなく不可もない。軽くあしらわれるのは自分だけ。そんなオヤジギャグを発することのできるセンスに憧れます。  別にオヤジギャグでなくてもいいです。その場の中間をスッと通る、誰も傷つけないジョークや発言をできる大人の男になりたい。例えば映画の中の西田敏行さん。そして高田純次さんや、デーブスペクターさん。  思うに、洗練されたセンスあるオヤジギャグは、いわゆる自虐ネタとは一線を画しつつも、自分も他人も傷つけることなく、自分の腰をかがめて、周囲の全員を上にあげようとする謙譲語的な働きがあるのではないだろうか。 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□  結論としては、オヤジギャグが洗練されてセンスあるものであれば、謙譲語的な働きをするのではないだろうか、という話でした。 2017.3.10 him&any ©2017 him&any