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夏の静寂は夢だったのかもしれない


今朝
目を覚ました午前6時ごろ

夏の朝は
しん、とした静寂の中にいた

白っぽい光が降っていたようで
屋根の輪郭は朧げだった

蝉は
鳴いていなかった

しん、として気配を消していた

そして
一瞬の隙に

その絵の中に音が差し込んできた
蝉が

鳴きはじめた

夏の静寂は夢だったのかもしれないと
思うほどの昨日と同じ
蝉の声の洪水

そして昼をこえて

夕方には
トンボがたくさん飛び交っていた

そうか

秋だ

秋が来たのだ

そういえば
朝夕は夏の重い暑さが緩んでいる

秋だ

秋が来たのだ

今朝はその分水嶺だったのかもしれない
あの静寂はきっと分水嶺の聖域

いっせいに蝉が鳴きはじめた前の日の
カミナリと豪雨のように


2017.8.3 him&any


©︎2017 him&any

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