表現することについての雑文 その1
・表現すること
「表現する」というと、ある特別なアートな世界の話だ、と感じるかと思いますが、実際はもっと日常的な世界の話です。日常の生活や、時には面接試験や、時には仕事の中で、表現というものが大活躍しています。決してアートの世界だけの話ではありません。
大声で悲しみを叫んだり、涙をぽろぽろと流したり、歯を食いしばったり、走ったり、笑ったり、そういった映像の中の行為は、カメラがそこにある前提でなされた行為であり、確かに、さまざまな心情や場面を表現している行為です。映像を見る人に何かを訴えかけます。その映像を見た人は、感動したり、笑ったり、心を揺さぶられます。それはとても大切なことです。
また、歌手が目を閉じて歌っていたり、ピアニストが大きくゆったりとした手振りで演奏していたり、髪の長いベーシストとギタリストが髪の毛を振り乱しながら激しく演奏していたりなど、そういう場面もよく目にします。そういったことも観客に何かを伝える表現です。観客がいなくてもそういった行為はあるかもしれませんね。例えばひとりきりの部屋の中で熱唱していたり、ひとりでカラオケで熱唱していたり。このブログの筆者にももちろん身に覚えがあります。それは自分自身に対して見せる表現です。あるいは自分自身をその音楽の世界にいざなう、そしてその世界に沈みこませる、自分自身のための表現であると思います。これもとても大切なことです。
声優さんも声による演技をします。これも何かを伝える大切な表現ですね。画家は絵で何かを伝えようとします。写真家も、建築家も、設計士も、デザイナーも、漫画家も、小説家も、何かを伝えるために表現をしています。では表現とはそもそもどういうことなのでしょうか。
・表現とは何か
表現とは「表に現す(おもてにあらわす)」ということです(※あくまでも筆者の個人的な考えです。語源や辞書的意味を研究したり考察したりしたものではありません)。漢字に書かれている通りのそのままの意味です。何かを目に見える形で、耳に聞こえる形で、表に現す、ということです。他に触覚も嗅覚も味覚もあります。それぞれがそれぞれの表現を受け取る仕組み(器官)です。その器官に何かを訴える、ということが表現となります。料理であれば、視覚、嗅覚、味覚に訴える要素が、料理における表現ということになります。
五感で受け取ることのできる形で、情報を「表に現す(おもてにあらわす)」こと、それが表現です。
それがなければ、伝わるものも伝わりません。あなたの本当の思いも、熱意も、やさしさも、愛情も、怒りも、そして悲しみも、表現しなければ、「表に現す」ことをしなければ、自然にふわりと伝わることはありません。
長い熟練の時を重ねた人間関係であれば、特に表現行為をしなくても伝わることもあります。日本語では、「阿吽の呼吸」と言ったり、「以心伝心」と言ったりします。「空気でわかる」というような言い方もあります。しかしそれは特殊な条件のもとのことだと理解しておく必要があります。実際には「空気」という名のもとに、「いつもとの違い」を何らかの形で感じているので、「わかる」ということにつながっているのだと思います。
日本語には「空気を読む」という言い方もありますが、それは自然に伝わるのではなく、受け取る側(空気を読む側)が、五感と経験と知識を駆使して、「この場合はこういうことではないのか」と必死でさぐりあてるのです。そんな「空気を読む」ということが自然なことだとは思わないほうが良いと思います。ましてや、面接や商談など、こちらの方が相手に伝えたい思いが大きい場面では、なおさら「自然に伝わる」という考えは遠ざけておいた方が良いでしょう。適切に伝えるためには、適切な技術が必要です。
受験のための面接を受けようという人、論文試験のある人、またビジネスにおいて誰かに訴えかける必要のある立場にいる人、職場において対人関係のある人、営業マン、事務職、サービス職、技術職、接客、その他さまざまな場面において、適切に表現するということに気をつけておくほうが、いろいろなことがよりスムーズに進むと思います。仕事や試験に限らず、友人や知り合いとの挨拶、会話、電話、メール、ファックス、ライン、ツイッター、ブログなどさまざまな場面で、表現について、そして適切な技術について、少しでも心を傾けると、より良い結果につながるのだと思います。
・表現の例
誰かに会った時に、おはようと挨拶をする場合、どのような顔をしているでしょうか。笑顔でしょうか。無表情でしょうか。怒った顔でしょうか。何も意識していないとしても、その時の顔(表情)が、おはようという言葉に意味を与えてしまいます。それもまた表現のひとつです。
笑顔でおはようとあいさつした場合、「良い気分」とか「敵意はないですよ」とか「親しさ」などを表現することができます。お互いの関係が熟練したものになると、無表情でおはようと言うほうが「親しさ」を表現することになっていたりすることもあります。表現に決まった形式はありません。
怒った顔でおはようと挨拶をした場合、それは、「わたしは機嫌が悪い」とか「わたしはあなたに不愉快な感情をもっている」ということを、表現してしまいます。意図していようが、まったく意図していなかろうが、それを表現してしまいます。
筆者自身、少年期から思春期にかけて、よく「なぜそのように怒っているのか」と言われた経験を持っています。 自分自身がまったくそのように思っていなくても、「笑顔という表現」をあまり用いなかったためにそのように思われていたのだと思います。もちろん、自分自身、若さゆえの「とがった」心意気もありました。「簡単に笑顔をみせてなるものか」という心意気です。それはそれで自業自得ということでしょうね。今思えばそれはそれでよかったと思います。
時には、怒った顔であるほうが通じ合う関係性という人間関係もあるでしょう。しかしそれはお互いにそうであると理解し合っていることが大前提です。お互いの理解がなければ、怒った顔で挨拶された側は、おもしろくない感情を持つことになります。
2017.2.8 him&any
©2017 him&any
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