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マスタリングで音圧があがらないという苦労を続けている その1


・まず初めに


 このブログの投稿では、「マスタリングで音圧を上げるコツ」は書いていません。「音圧があがらないという苦労」を書いているだけです。

 本当のミュージシャン、というかもっと本格的にやっている方々が、さまざまな記事を書いているので、「コツ」を知りたい場合は、そのような記事を参考にされるとよいと思います。といいつつこのブログの筆者もそういう記事を読み漁ってはチャレンジして、そして挫折、ということを繰り返しています。

 苦労の中でも、思うことはあるので、それが誰かの参考になれば、そして自分への励ましになればと思い、記事を綴ります。


・この投稿のきっかけ


 よく見たら自己紹介で音楽やってます、ということを言っているわりには音楽のことをブログで書いていなかったので、書いておきたいと思ったので、書きます。


・音圧とは


 音圧というのは、この表現で正しいどうか分かりませんが、「音が大きく聞こえるかどうか」です。実際のボリュームの大小とは違って、「どう聞こえるか」ということだと思っています。

 あと、ボリュームそのものを大きくするのではなくて、波形を大きくする、という感じかと思われます。

 音圧があがっていないと、いくらマスターフェーダーをあげても、音は大きく聞こえません。このブログの筆者のyoutubeでも音圧の有無というのは差が出ています。曲がりなりにもシングルとして配信に出している音源は、がんばって音圧をあげています。

 「そっと星の色を」や「sizukani」は、細かいミックス&マスタリング前の状態をfull verとしてアップしているので、配信版と比べると差が分かるかと思われます。
 ☆「そっと星の色を」配信版 、 full ver
 ☆「sizukani」配信版 、 full ver

 本日現在でいちばん新しい曲の「122 くちばしの天使」は、けっこう音圧があがったなあと思っています。この曲は配信版を作る予定がないのですが。


・波形の上限


 上に波形を大きくする、と書きましたが、波形はどこまでも大きくできるわけではなく、「上限」があります。「天井」があるわけですね。その天井に、ギザギザの波形のどこかがひっかかってしまうと、もうその曲はそれ以上波形が大きくなりません。それ以上大きくしようとすると、ギザギザが天井からはみだして、音が割れます。

 ギザギザの「山」がつっかえてしまうと、へこんだ「谷」のところも、それ以上あがらない、っていうことです。

 ただ、ギザギザの波形のひっかかったところは、サクッと切り取ってしまえば、もっと波形を大きくすることができます。そういう裏ワザ的なことが簡単にできる装置がマスタリングソフトや、最近のDAWソフトにはくっついています。

 でもそれを使っても、音圧がなかなかあがらないんですね。このブログの筆者の場合、かもしれませんが。プロの曲と交互に聞くと差が歴然としています。


・音圧のイメージ


 音圧を上げる作業は、スーツケースに荷物をつめる作業のようなイメージをしています。マスタリングの解説の本やサイトには「箱」とか「入れ物」というたとえがでてきます。それと同じイメージで、スーツケースをイメージしています。

 当然、入る量は決まっているので、持っていきたい服や荷物をすべて詰め込むことはできません。それをどう詰めるのか、というのが、プロと、このブログの筆者の差だと思います。そう分かっていてもなかなかうまくいかないのだけれど。

 正直、プロの人のスーツケースは、こっちのより2倍くらい大きいんじゃないの??と思ってしまうくらい、差を感じます。(本当はそんな差はないみたいなのですが)

☆☆長くなりそうなので記事を分けます☆☆
☆☆その2へ☆☆


2017.2.27 him&any

©2017 him&any

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