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マスタリングで音圧があがらないという苦労を続けている その2

・まず初めに(再掲)


 その1の続きですが、その1に書いた注記を再掲します。

 このブログの投稿では、「マスタリングで音圧を上げるコツ」は書いていません。「音圧があがらないという苦労」を書いているだけです。

 本当のミュージシャン、というかもっと本格的にやっている方々が、さまざまな記事を書いているので、「コツ」を知りたい場合は、そのような記事を参考にされるとよいと思います。といいつつこのブログの筆者もそういう記事を読み漁ってはチャレンジして、そして挫折、ということを繰り返しています。

 苦労の中でも、思うことはあるので、それが誰かの参考になれば、そして自分への励ましになればと思い、記事を綴ります。

ーーー以下、その2ですーー


・音圧をあげるための工夫


 スーツケースにぐちゃぐちゃっと服を入れてもあまり入りません。なので、ひとつひとつ取り出して、まずは畳んで入れてみます。そうすると少しはすっきりします。それは具体的な音楽の作業だと、ひとつひとつのトラックにコンプをかけるとかEQをかけるとか、フェーダーPANの調節をする、という感じです。

 それで、じゃあスーツケースのフタを閉めようとしても閉まらないんですね、これが。なので、もういちど取り出して畳んで、というのを繰り返します。そして挫折します。

 そんな中で、ダウンジャケットが入っていることに気がつきます。こんなモコモコしたの入れてたら、入るわけないじゃん、ということで、ダウンジャケットではなくて、トレーナーにしようかな、とか考えるわけです。「低音」の音域がダウンジャケットのイメージですね。

 外が寒くて「低温」だとダウンジャケットが必要で・・・ということではなく、「低い音」はけっこう幅をくう割に、聞こえにくい、というやっかいな特徴をもっているみたいなのです。でも個人的にベースやバスドラムは太い方が好きなので、どこまで削るか、というのは、悩むところです。悩むというか、妥協できるかどうか、というところです。


・音圧あげに苦労しないもの


 比喩の続きでいうと、指輪とかネックレスとか、キラキラしたアクセサリーなんかは、結構、コンパクトにまとめられるのでスーツケースにもたくさん入ります。音域でいうと「高音」のところです。比喩の通り、キラキラした感じの音です。でも、これが多いとキラキラしすぎて眩しいというか、耳が痛いというか、キャラに合わないというか、などなど、音圧の面ではあまり苦労しないけれど、悩みは尽きないところです。


・意外と苦労するパート


 それはボーカルです。これはこのブログの筆者の特性でもあるのですが、もともとの声が低くてこもっていて、発音も口をあまりあけないで、もごもごとしゃべるので、普段の生活でも、よく「は?」と聞き返される、そういう声の特性を持っているボーカルです。なので、まず聞こえる状態にするために、そこそこフェーダーを上げることになります。そうするとスーツケースの中のスペースを圧迫します。

 さらに、him&anyの歌はすべてボーカルを複数重ねて録音しています。最高で5人くらいのhim&anyが同じボーカルを歌っています。ハモリではなく、同じパートを歌っています。ハモリをいれたらもっと増えます。それは、スペースとりますよ、それはそうですよ、だってただでさえ聞き取りにくいのに、それを重ねてるんだからね。

 ということでhim&anyの改善すべき点はボーカルです。


・なんでうまくいったのか分からない


 「122 くちばしの天使」は、結構な数の楽器をいれています。楽器数の多さは自作曲の中でもおそらく5本の指に入るのではないかと思います。とはいえまだ全部で20曲もない程度だけれど。

 ボーカルも4つ以上重ねてます。でも意外と音圧的には大きく聞こえるんですよね。なぜか。

 もちろん、上に書いたような、低音を工夫するとか、服を取り出して畳み直すとか、たくさんの工夫をしていますが、それでも他の曲よりも音が出ている理由はよく分かっていません。


・この先トライしたい工夫

 ☆☆ネタバレあります、と書くべきなんでしょうね、この場合。この先、映画「釣りバカ日誌」の場面の一部を引用しています。そのシリーズの中のどの作品なのかちょっとわかりません。申し訳ないです。テレビで何回か放映していた作品です。今後、「釣りバカ日誌」を全部見るつもりなんだから内容は一切知りたくない、という方は、以下の部分を読むかどうか自身の責任においてご判断ください☆☆

 スーツケースに詰め込む服の比喩でいうと、西田敏行さんの演じる釣りの好きなサラリーマンの映画で、見かけた「首元だけのカッターシャツ」です。あれは最高でした。宴会の場面で、首元の襟とネクタイしかない「カッターシャツもどき」を身につけていたんですね。確かに、外から見える部分はそこしかないんだから、それで充分です。

 それが、音圧にも関係してて。「必要な部分だけそれがあればいい」ということです。ギターもずっと鳴っている必要はないし、後ろで鳴っているパッド系の音も不必要な場所があるはずです。それを削っていって、「パッと見、ちゃんとした服」に見えるようにできれば、音圧はもっとあがるはず、と思っています。

 さあ、ここ一か月、ブログばっかりに時間をとられたので、そろそろ、音楽を再開しよう。

 とはいえ、パタパタとキーを打つだけで、文章はつながっていくので、今のところ、ブログの方が楽です(あくまでも個人の感想です)。ネタが尽きたら、どっちも楽じゃなくなるんですね、きっと。


2017.2.28 him&any


©2017 him&any

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