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2000年後のちょうど今から6時間ほど前にもしも

2000年後のちょうど今から6時間ほど前にもしも誰かの話題にのぼったとしたら、あの人の恋はほどけてしまったけれどあの人の人生は真摯だったと言って空を見上げていてほしい


2017.4.15 him&any


©︎2017 him&any

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him&any「恋がふりつもる夜」Cメロ win10 フォトで動画作成

him&any「恋がふりつもる夜」 紹介用ショート版 Cメロ YouTube動画と歌詞です。 Win10のフォトで3D効果をのせています。 ーーー歌詞ーーー 揺れる   不安と 希望に    惑い つまづいて 塞がる世界で    甘い 悲しい 夢をみていた ーーー --- 2018.11.8 him&any ©2018 him&any

Decemberや師走という12月の呼び方のさらに別名を考えてみた結果としての山下達郎

さて、 12月ですね。 英語では December です。 日本では「師走」ともいいますね。 「師」というのは僧侶のことらしく、 僧侶が忙しくて走り回っているから「師走」 という説もあるそうです。 あとは、四季が終わるという意味で「四極(シハツ)」 という説もあるそうです。 言葉の由来はおもしろいですね。 December  の由来はというと 10番目の月、という意味だそうです。 不思議ですね。 そこで 新しい12月の呼び方を考えてみました。 思いついたのがこちら↓ 「Tatsuro」 日本語表記だと「たつろう」ですね。 あの有名な山下達郎の「たつろう」です。 もう12月といえば必ず 山下達郎の「クリスマス・イブ」を聴くので この曲は「師走」の師くらい 街中を走り回っているのではないでしょうか。 この曲とても好きです。 2018.12.1 him&any ©︎2018 him&any

タガがはずれる・ハメをはずす・ハネをのばす 比較

◆前置き  自由詩「夢の中の配役」の中で、「理性のタガがはずれる」という言い方をしたときに、同時に浮かんだ3つの表現について比較してみます。  3つの表現とは、タガがはずれる、ハメをはずす、ハネをのばす、です。  あくまでも個人の感想です。語源の検証や、用例の正確さを保証する内容ではありません。あくまでも個人の感想ですので、例えばテストで、この3つの表現について意見を述べよ、という問題が出て、このブログを参考に答案を書いて、不正解だったとしても、責任は負えません。先生に、him&anyのブログにそう書いてあったのに、と言ってもおそらく効果はありません。むしろ逆効果かもしれません。ご注意ください。 ◆タガがはずれる  漢字だと、箍が外れる、と書くようです。こんな漢字だとは知りませんでした。日本語を勉強中の皆さん、この漢字を知らなくても、少なくとも数十年は問題なく日本で生活できることが今ここで証明されたので、ご安心ください。  意味は、しめつけや枠組みがなくなることのようです。ひつじ牧場の、囲いの柵がなくなるようなイメージですね。ひつじ達はどこにでも行くことができます。  理性のタガがはずれる、ということは、理性によるしめつけや枠組みがなくなる、ということです。理性にしめつけられているのは本能ですね。本能が自由に振る舞うことができる、という意味になります。  本能が自由に振る舞うということは、つまり、自然、ということでしょうか。いわゆる社会的規範や常識的行動、あるいは公序良俗といったものにとらわれない、ということになります。  「あいつはタガがはずれちゃったんだよ」なんて言うときは、何かの原因があって、振る舞いに良識を感じられなくなる、という意味になります。  でも、人間の「自然」って、本能が自由に振る舞うだけではない気がします。本能もあり、理性もあるというのが現在の人間の脳の構造であるなら、どちらも有効に機能できている状態が、自然、なのかもしれません。 ◆ハメをはずす   漢字だと、羽目を外す、と書くようです。ただ、もともとは「馬銜」と書いたようです。「馬銜」というのは、馬の口に噛ませて馬の動きを制御するものだそうです。「馬銜」は「ハミ」とも「ハメ」とも読むそうです。そこから、「羽目」の漢字をあてること

次々に分岐しながら広がるように。

水が流れる先を探して隙間から隙間へとたどって流れていくように人生を生きてきた。傾きがあるからこそ次の場所に進めたのかもしれない。ずいぶん長い下り坂をくだってきたようだ。あちこちに曲がりながら流れやすい場所を探しながら。気がついたらこんな場所にいた。最初と今のつながりを辿ってもどこでどうやってここまでつながってきたのかわからない。でも植物の根が次々に分岐しながら広がるように時間は流れていく。途中で硬い石にぶつかればそこでまた分岐して先へ先へと水のある場所を求めて進んでいく。その水がどこに送られているのかも知らない。今ごろ地上では輝かしい太陽の光の下で花を咲かせているのかもしれない。冷たい雪の下で春を待っているのかもしれない。でもそんなことは知らない。今見えるのはどこまでも続く土の中の暗闇と時々ぶつかる石ばかりだ。今もまた石にぶつかって分岐して進んでいく。今いるのはあるいはこちらの根かもしれない。あるいはあちらの根かもしれない。分岐して土の暗闇の中へ進んでいったのはもしかしたら自分ではないだろうか。深い深い土の暗闇の中で触れあった水に手を添えてそっと抱きしめて溶けあう。 2018.12.18 him&any ©︎2018 him&any

「インターネットは世界に向けて開いた窓」

「インターネットは世界に向けて開いた窓」という言い方をひと昔前はよく見聞きしていたような気がする。 「インターネットは世界に向けて開いた窓」というのは本当にうまい表現で、自分に関して言えば、現状として部屋の中にいる自分を窓の外にさらけ出しているだけであって、自分の「視野」は自分の部屋の窓枠サイズの大きさでしかなく、特に視野が世界規模に広がったわけではない。 ツイッターのタイムラインはまさに自分が作った窓で、フォローしている数によってその窓枠のサイズが変わる。本当はもっと、とてつもない大きさの「流れ」が外にあるのだけど、自分がフォローすることで作り上げた窓枠の中を流れる世界しか見えない。 もちろんインターネットやツイッターやSNSがなければ知ることがなかった曲や絵や写真や文章や情報がたくさんあるから、それは(ほんの20年前には存在していなかった状況であり)とても素晴らしいと思っているけれど、自分で動いて色々なモノを見に行かなければ昔と比べて視野は広がってはいない。 しかも最近のwebサイトはYouTubeもツイッターも広告もその優秀さゆえに「興味がありそうなモノ」を絞りこんでオススメしてくれるから、あえてそこを避けていかないと「自分の興味」という小さなサイズの窓枠から覗いて見える「狭い世界」しか見えない。インターネットで世界は広がったようで、実は相変わらず閉じられている。自分の窓枠、つまり自分の世界の中に閉じ込められている(これはインターネットに限らず思考や認識が原因でもあると思うけれど)。 自分が自覚的に窓枠サイズを広げていかないとインターネットの利点をほとんど享受できていないのではないだろうか。ツールの進歩に、それを「使う」はずの自分が追いついていけていない。「使う」ことができていない。むしろ使われている気さえしてくる。なんだかとてももったいない気がする。 2018.12.16 him&any ©︎2018 him&any