詩は日記みたいなものだと気付いたのでブログに載せておいてもたぶん正解だろうと思った。なぜなら詩は日記みたいなものだからだ。そしてブログとはそもそもウェブログでウェブ上の記録だから日々の記録という意味では日記みたいなものだからだ。日記みたいなものである詩が日記みたいなものであるブログに載っているところで何の不都合もない。ということに気付いたので詩はブログに載せておいてもたぶん正解だろうと思った。詩の中の言葉や空白においては自分自身ではそこに浮かんでくる景色や匂いや音があるのでその文章を読むだけで自分自身はその日のその時の空気を感じることができる。プロの、というか本物の詩人であればおそらく自分自身だけでなく他の誰かにもその空気を感じさせることができるのだろうけれどあいにくそのような研ぎ澄まされた技術や感性を持ち合わせていないので自分自身がいつかの自分自身のことを記録としてとどめておくにも詩はとても良い形態だったのだ。○○が△△でどうしてこうしてと詳しく具体的に記録するよりも空白の多い詩の方がより鮮明にその時の空気や世界を自分の中で再現することができる。もしかしたらそれはことばを足掛かりにした新しい創られた記憶なのかもしれないけれどそれはそれで構わないと思う。誰が正しい記憶と創られた記憶を区別することができるだろうか。そうでないのだから日々創られる新鮮な記憶が自分自身の過去と今と未来を彩っていくのであればそれが人生だしそれこそが世界のすべてになるわけだからそれは日々新しく新しく創られていくほうが眩しく輝かしい。そのまぶしさに余計な描写はたぶんいらないし注釈も解説もいらない。だから詩の方がいい。でも詩は具体的なものそのままを記載しているわけではない。もちろん。脚色している。出会ってもいない人と出会っていたり別れてもいない人と別れたりしている。もちろん見たことない景色を見て聴いたことの無い音を聴いている。詩の中では。それは特別な世界だ。自分自身だけの中の世界だ。それはそれでいいんだと思う。それはそれでいいと思う。
2017.4.10 him&any
©2017 him&any
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