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詩について

詩は日記みたいなものだと気付いたのでブログに載せておいてもたぶん正解だろうと思った。なぜなら詩は日記みたいなものだからだ。そしてブログとはそもそもウェブログでウェブ上の記録だから日々の記録という意味では日記みたいなものだからだ。日記みたいなものである詩が日記みたいなものであるブログに載っているところで何の不都合もない。ということに気付いたので詩はブログに載せておいてもたぶん正解だろうと思った。詩の中の言葉や空白においては自分自身ではそこに浮かんでくる景色や匂いや音があるのでその文章を読むだけで自分自身はその日のその時の空気を感じることができる。プロの、というか本物の詩人であればおそらく自分自身だけでなく他の誰かにもその空気を感じさせることができるのだろうけれどあいにくそのような研ぎ澄まされた技術や感性を持ち合わせていないので自分自身がいつかの自分自身のことを記録としてとどめておくにも詩はとても良い形態だったのだ。○○が△△でどうしてこうしてと詳しく具体的に記録するよりも空白の多い詩の方がより鮮明にその時の空気や世界を自分の中で再現することができる。もしかしたらそれはことばを足掛かりにした新しい創られた記憶なのかもしれないけれどそれはそれで構わないと思う。誰が正しい記憶と創られた記憶を区別することができるだろうか。そうでないのだから日々創られる新鮮な記憶が自分自身の過去と今と未来を彩っていくのであればそれが人生だしそれこそが世界のすべてになるわけだからそれは日々新しく新しく創られていくほうが眩しく輝かしい。そのまぶしさに余計な描写はたぶんいらないし注釈も解説もいらない。だから詩の方がいい。でも詩は具体的なものそのままを記載しているわけではない。もちろん。脚色している。出会ってもいない人と出会っていたり別れてもいない人と別れたりしている。もちろん見たことない景色を見て聴いたことの無い音を聴いている。詩の中では。それは特別な世界だ。自分自身だけの中の世界だ。それはそれでいいんだと思う。それはそれでいいと思う。

2017.4.10 him&any

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ごんぎつね 解釈

突然ですが、 『ごんぎつね』(新美南吉)の解釈をしてみました。 (個人的な想像をかなり含みます) 「『ごんぎつね』は「兵十」による「ごん」への哀悼の物語である。」 これが結論です。 そう思った理由は冒頭の一行です。 「これは、わたしが小さいときに村の茂平というおじいさんからきいたお話です」 この物語はこの文章から始まります。 つまり、この物語の「語り手」は「わたし」です。 「わたし」は「茂平というおじいさん」からこの話を聞き、 それを、読者に向かって語ります。 そのため、物語の中の言葉はすべて「わたし」の語っている言葉です。 兵十の言葉も、ごんの言葉も「わたし」の言葉です。 「小さいとき」に「茂平というおじいさん」からきいたお話を 大人になった「わたし」が語っているため、物語全体には「わたし」による 再構築も含まれることになります。 「わたし」が『もと』にしたお話しは「茂平というおじいさん」のお話しです。 では「茂平というおじいさん」がさらに『もと』にした話は誰が語ったのか? 「茂平」は誰からこの話を聞いたのか? これは本文にでてこないので分かりません。個人的には、 兵十や加平など「物語のリアルタイムの時間帯にいた人」から聞いたのだと推測します。 それでは、 「物語のリアルタイムの時間帯にいた人が茂平に語ったお話」 の原型をつくったのは誰か? それは「兵十」です。この物語を体験したのは唯一、兵十だけです。 兵十が誰かに自分の体験を物語ったのが発端となります。 時系列でまとめると、 兵十がごんとの出来事を体験する(きっかけ) ↓ 兵十が出来事の意味を考える(話の原型) ↓ その体験を誰かに話す(原型の完成、および「物語」化) ↓ 茂平というおじいさんがその話を聞く(茂平の物語となる) ↓ わたしが茂平からその話を聞く(わたしの物語となる) という流れです。 つまり、この物語の全ての元は、兵十です。 物語の中で、 兵十と加助が話をしているのをごんが聞いている、 という場面がありますが、 兵十は、「自分と加助が話をしているのをごんが聞いていた」 ということは知りません。 「ごんが実は葬式の場面を目撃した」ことも、 「ごんが何をどう思ったのか」も知りません。

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タガがはずれる・ハメをはずす・ハネをのばす 比較

◆前置き  自由詩「夢の中の配役」の中で、「理性のタガがはずれる」という言い方をしたときに、同時に浮かんだ3つの表現について比較してみます。  3つの表現とは、タガがはずれる、ハメをはずす、ハネをのばす、です。  あくまでも個人の感想です。語源の検証や、用例の正確さを保証する内容ではありません。あくまでも個人の感想ですので、例えばテストで、この3つの表現について意見を述べよ、という問題が出て、このブログを参考に答案を書いて、不正解だったとしても、責任は負えません。先生に、him&anyのブログにそう書いてあったのに、と言ってもおそらく効果はありません。むしろ逆効果かもしれません。ご注意ください。 ◆タガがはずれる  漢字だと、箍が外れる、と書くようです。こんな漢字だとは知りませんでした。日本語を勉強中の皆さん、この漢字を知らなくても、少なくとも数十年は問題なく日本で生活できることが今ここで証明されたので、ご安心ください。  意味は、しめつけや枠組みがなくなることのようです。ひつじ牧場の、囲いの柵がなくなるようなイメージですね。ひつじ達はどこにでも行くことができます。  理性のタガがはずれる、ということは、理性によるしめつけや枠組みがなくなる、ということです。理性にしめつけられているのは本能ですね。本能が自由に振る舞うことができる、という意味になります。  本能が自由に振る舞うということは、つまり、自然、ということでしょうか。いわゆる社会的規範や常識的行動、あるいは公序良俗といったものにとらわれない、ということになります。  「あいつはタガがはずれちゃったんだよ」なんて言うときは、何かの原因があって、振る舞いに良識を感じられなくなる、という意味になります。  でも、人間の「自然」って、本能が自由に振る舞うだけではない気がします。本能もあり、理性もあるというのが現在の人間の脳の構造であるなら、どちらも有効に機能できている状態が、自然、なのかもしれません。 ◆ハメをはずす   漢字だと、羽目を外す、と書くようです。ただ、もともとは「馬銜」と書いたようです。「馬銜」というのは、馬の口に噛ませて馬の動きを制御するものだそうです。「馬銜」は「ハミ」とも「ハメ」とも読むそうです。そこから、「羽目」の漢字をあてること

悲と恋 漢字の由来や成り立ち そして意味のつながり そして自分の曲

悲しい と 恋しい 漢字を見ていて何となく似ているなあと 思いました。 下の「心」が同じというだけですが。 成り立ちを調べると 「悲しい」の「非」のところは ・羽を広げた形=左右に分かれる とか ・互いに背を向けた人=左右に分かれる とか そういう意味があるようです。 それで左右に分かれる心で悲しい ってことみたいですね。 「恋しい」の「亦」のところは 旧字の「戀」でみると「糸+言+糸」だそうです。 ・糸が絡まったような様子 とか ・糸を引きあうような様子 とか そういう意味があるそうです。 ということで絡まるように引き合う心で恋しい っていうことになるんでしょうね。 悲は「左右に分かれる」 恋が「引き合い、絡まる」 ということで成り立ちや由来からすると 正反対なんですね。 もちろん、意味も「悲しい」と「恋しい」は 反対な気がしますが、 でも、意味は似ている気がしませんか。 僕は似ている気がします。 恋をすると悲しいとか、 悲しみは恋があればこそ、みたいなところないですか。 感情としてもとても似ている気がするんですね。 だから日本語でいう「愛」と「恋」は 決定的に違う気がします。 (英語ではたぶんどちらも「LOVE」だと思います) 恋とはたぶん悲しいものなんです。 なぜなら「恋をしている」というのは 基本的に相手と「離れている」からです。 「恋人」だって結婚している人ではないので そのふたりは、まだ離れているわけです。法律的にも。 それに「恋しく思う」のは その対象が自分から離れているからこそ 「恋しく」感じるのではないかなと思います。 ずっとそばにいて、深いつながりを感じられている状態は もう「恋」とは呼ばない気がします。 だからこそ「恋」は手に届かなくて遠くにあって だからこそ綺麗にみえるものなのではないでしょうか。 それはそれで「恋」の良さなんだと思います。 ということで、ツイッターに書いた短詩「悲恋」 ↓ 「なぜ悲しいのですか」 「まだ恋しいからです」 ということで成り立ちや由来は反対だけど 意味としては反対ではなくつながりがあるような気がする 「悲しい」と「恋しい」についての考察でした。 him&a

昔話と5W1H

昔話はすごい。 何かというと5W1Hがすごい。 昔話は導入部分で5W1Hをしっかりふまえているので 話に入り込む枠組みが一瞬で示される。 本当に最初の一瞬ですべて明示される。 これはたぶんビジネスにも応用できると思う。 さっそく昔話のスタートをみてみると 「むかしむかし(when)あるところに(where)  おじいさんとおばあさんが(who)暮らしていました(what)」 ここで、すでに4Wが示されている。早い。 物語として「お話」するとき、なんと、最初の息継ぎまでに ここまでもの情報を示している。早い。 そして2フレーズ目。 「おじいさんは山へ柴刈りに(why/how)  おばあさんは川へ洗濯に(why/how)行きました」 これで5W1Hが完了する。 なんと、息継ぎほんの2回で5W1Hが完了する。 迅速、簡潔、明瞭このうえない。 これはビジネス向けの話法でもプレゼンでも たぶん役に立つスキルだろうと思う。おそらく。きっと。 いちおう5W1Hを説明しておくと when(いつ) where(どこで) who(だれが) what(なにを) why(なぜ) how(どのように) の頭文字をとった言い方で、説明の際に意識すると わかりやすくなると言われている。 「竹取物語」でも 「今となっては昔の話だけど、竹取のオキナというおじいさんがいてさ、  竹をとりながらいろいろと使って暮らしていたんだよね」 という部分で示されている。 そして昔話における5W1Hのさらにすごいところは 何といっても「実はほとんど何も言っていない」というところだ。 情報としてはかなり薄い5W1Hである。 それが逆に「汎用性の高さ」をもっているので、すごい。 「むかしむかし」→いつでもOK 「あるところに」→どこでもOK 「おじいさんとおばあさん」→だれでもOK 「暮らしていました」→何をしていてもOK 「柴刈り/洗濯」→ほかの生活手段や方法でもOK ということで、どこの地域の物語としても通用する。 だからこそ、いろいろな場所で 「自分の土地、自分の先祖、自分にどこか関わりのある話」 として多くの人に語り継がれてきたのだろうと思う。 しかもその「汎用性の高さ」を活かして 土地

ASKA「止まった時計」

ASKAの「止まった時計」という曲が好きである。 わりとスローテンポなバラード(?)であるが なんだか神秘的で幽玄な雰囲気のイントロから始まり オーケストラ(?)のようなアレンジが ぐうっと心をもっていくように感じるのである。 特に後半の最後のサビあたりのもっていくパワーはものすごい。 ASKAの独特の「ぅぅわぁぁぁああ」という感じの 歌声によるもっていくパワーとストリングスが重なって 「もっていかれる」のである。 ちなみにイントロがけっこう長くて 歌が始まるまで約1分20秒。 これを長いと感じるかどうかであるが このイントロをジックリ聴くことでASKAの歌いだしの第一声に すーっと入っていくことができるのだと思う。 第一声の歌詞の内容的にもこの長いイントロは意味を含む気がする。 なのでこのイントロは「必要」で「必然的」な長さなのだと思う。 これはたぶん「ものすごく長い小説」を読むときの気持ちに 近いかもしれない。 小説世界の内容の良し悪しはもちろんではあるが、 その「長い小説」の場合は、「長さ」が重要なので、 その「長さ」を読者として「通過」することで 目にすることができる世界があるのである(たぶん)。 歌詞の内容は恋愛の歌詞であると思う。 もしかしたら恋愛という設定を借りたもっと別の 意味があるのかもしれないけどそれは私には分からない。 たぶん女性目線での恋愛に関しての歌詞だと思うけれど それを女性が聴くと確かにそうだねと思うのだろうか。 あるいはもっとあっさりしているよと思うのだろうか。 これだけ時間と心を費やして聴く曲であるということは 夜にじっとり聴くのにとても良い曲なので、 忙しい時にサクッとサビまで聴きたいような気持ちの時は あまりセレクトされない曲である(私の中で)。 この曲は「SCENE2」というアルバムに収録されている。 調べてみたら1991年。CHAGE&ASKAの「SEY YES」という曲が 爆発的にヒットした年でもあるらしいので、 おそらくASKAのソロアルバムの中では一般的な認知度も 高いかもしれない。 このアルバムには他にもいい曲が多い。 私の人生においてもときどき「止まった」期間があるように思う。 今はたぶんその中にいる気がする。

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タイトルの通りです。思い付きです。 別に学術的な考察や実験や理論などはありません。 でも、なんとなく、そんな感じがしませんか? 【パソコン】 入力 ↓ CPUで処理 一時的にメモリ(RAM)を使用 ↓ 必要なものはHDDで長期記録 【人】 刺激 ↓ 脳神経を使って処理 海馬に一時的に記憶 ↓ 必要なものは脳全体で記憶 (主に大脳新皮質なのかな) この類似性って とても不思議な感じがしませんか 僕は興味を惹かれます。 パソコンを作っている人たちが 人間の記憶方法をモデルにパソコンを作っているのか。 あるいは、無意識のうちに 人間の記憶システムをモデルにしていて そして、いつのまにか 人間の記憶方法と同じようなシステムを 構築してしまったのか。 とても興味を惹かれます。 最近はHDDではなくSSDをメインの記憶媒体として 使用するパソコンも増えてきました。 SSDはフラッシュメモリなどと 同じような仕組みらしいので 海馬に近いのでしょうか。 HDDに書き込みをしないぶんだけ 処理時間が速くなるようです。 これって、今の人間の記憶方法にも 似ている気がしませんか? 昔は、きちんと自分で暗唱できるくらい 文章や語句の意味などを読んだり書いたりして覚えたものです。 ようするにHDDに一生懸命書きこんでいたわけです。 でも最近はスマホやパソコンで調べられるから あまりきっちり覚えこまなくてもいい。 覚えこむことに時間をとらずに サクサクと調べて処理して次に進むほうがスムーズ。 記録するならパソコンに入れておけばいい。 音声でもPDFでも。 なんならメモしたものがそのままクラウドに保存できて さらにそのまま共有できて更新できますね。 そんな処理方法に変わってきている気がします。 これってつまり、 海馬部分だけ(比較的短い記憶だけ)を活用して 脳全体の記憶はデジタルに任せている ↓ SSDだけを活用して 必要な記憶はHDDや外付け媒体などに任せている というのと 似ている気がしませんか。 そういう感じの類似性に 何となく、興味を惹かれました。 him&anyの2018年最初のブログ記事でした。 今年もよろしく