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fluctuation 揺らぎ


何もない日々には何もないんだから
何もしなくていいんだよ。

流れる時間が音も重さもなく
目の前をドロリと流れていくのをぼんやりと

眺めていればいい。

それはそれでいい。

という思いと、

対立する思いと。

何もない日々だからこそ何もないその場を
もがいてもがいてかき乱して
均衡を崩すほうがいい。

揺らぎから宇宙が生まれるように。

何もない均質を揺らす。

乱れとはそこにもともと基本的な繰り返しという
均質な基盤があればこそ生まれる

何もない日々は
乱れを、何かを、命を
生み出すための支えになる基盤だと
思うことが可能なら

それはそれで価値だろう。

乱すための整然だろう。


2017.4.30 him&any


©︎2017 him&any

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