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光のスリット実験や干渉縞について素人が一生懸命考えてみた創作物のような考察

*これは物理も数学も全くよく分からない人間が、光のスリット実験や、その他いろいろな物理関係の本(入門編、とか、図解でよく分かる、とかそんなレベルの本です)について聞きかじった内容をもとに、自分なりに空想的に、その不思議について考えている文章です。理論も理屈もありません。想像です。創作小説や作り物語や自由詩と同じようなものだと思って読んでください。(^^)


◇光のスリット実験


 光のスリット実験において、2つのスリットを通る2つの光は、スクリーンに干渉縞をつくります。それにより、光は波の性質をもっていると考えることができます。

 そこで、光の粒子を1粒ずつ照射するとどうなるか、という実験もあります。その実験において、スクリーンに当たった無数の光の粒の跡を集積すると、干渉縞と同じ模様を作り出すそうです。


◇1粒の光による干渉縞の不思議


 1粒ずつしか照射していないのであれば、スクリーンに残る光の跡は、ランダムに散らばるか、一か所に集中するのではないかと考えてしまう。しかしそうではない。

 1粒1粒、それぞれの光の粒がつけたその痕跡を、後から集積すると、干渉縞を描き出している。不思議です。その1粒1粒は自分自身の振る舞いをしているだけなのに。

 不思議です。

 1粒1粒という単発の行為が、まるでもともと予定されていたように配置されていたということが、後から集積してみると分かるだなんて。

 とても、不思議です。

◇1粒の干渉相手


 その1粒の光は、いったい何と干渉して、その縞模様を描くのだろうか。

 数式や物理のことは全くわかりませんが、想像してみました。すると、もしかしたら、光の粒は「自分自身」と干渉しているのではないだろうか、と思いつきました。

 自分自身というのは、過去の自分自身、未来の自分自身、そして同時間別次元の自分自身です。同時間別次元というのは、いわゆる平行世界です。(それを信じるか信じないかというのは、とりあえずおいといて)

 光のスリット実験では、1粒の光を2つのスリットに向けて飛ばします。そこで、光の1粒は、実際は、2つのスリットを同時に通過するのではないか、という説があると聞いたことがあります。2つに分かれるのではなく、1粒が同時に2つのスリットを通る、ということらしい。

 普通に考えたらそんなことは起こらないはずですよ。人間が歩いていて、右と左の2つのドアを同時にあけて通過する、ということですよ??

 あるはずがない。

 それが可能なのは、先ほど書いた平行世界くらいです。

 平行世界というのは、道を歩いていくと、道が2つに分かれていて、左を選んで進んだけれど、それと同時に、右を進んだ場合の世界も存在していて、そこから世界は複数に分かれて存在する、というやつです。

 多元宇宙論とか言うのも同じなのかな?(選択肢の数だけ世界があるのなら、いったいどれだけ世界があるんだろう。ひとり分だけでも相当な数になるはずだけど)。


◇過去と未来


 アインシュタインの理論だと、光速に近づくほど時間の流れが遅くなる、というのがあったはずです。それなら、時間の流れというのは、不変ではないということですよね。早くなったり遅くなったりすることができる。

 それなら、極端に速くなれば、未来へ飛び出すし、極端に遅くなれば過去へ向かう、という想像をしてもよいのではないか、と思いつきました。

 さらに、光速そのものはどのような時間の流れの中にいるのだろう、と考えてみた。結果、時間そのものが無いんじゃないの? という想像にたどり着いた。

(繰り返しになりますが物理も数学も分からないので、途中式や計算過程や理論の積み重ねなどはまったくありません。単なる空想と想像の「つぎはぎ」です。)

 ということで、光速そのものである光の粒には、時間が無く、過去も未来も無い。でも未来にも過去にも飛び出すことができるから、逆に、過去も未来も一緒になって含まれて、そこに有る。

 そんな光が、同時に2つのスリットに向かうので、過去に通過した自分自身と未来に通過する自分自身が干渉して、縞模様になる、なんていうのはどうでしょうか。


◇平行世界


 さらに、光の粒子くらいのレベル(どんなレベルなんだか)になれば、量子論の本によく載っている「可能性の雲」の中に存在しているはず(使い方があっているのかどうかもわかりません)。であれば、「可能性の数だけ世界がある」という平行世界の中に、光の粒子が存在していたとしても、たぶん大丈夫でしょう。

 つまり、光の粒子の存在基盤はこの世界だけではなく、他の平行世界にも同時に存在基盤をおいている、ということです。

 我々人間は、この世界にしか存在基盤を置いていません。あっちの平行世界にいる同一人物は、あっちに存在基盤をおいているわけです。でも光は「同じ光」があっちにもこっちにも同時に存在基盤をおいている、と言いたいわけです。

(そして、他の世界に同時に存在していると考えられるのならば、光はあちらとこちらの架け橋みたいなものでもいいんじゃないでしょうか。)

 で、その光の粒が2つのスリットに向かって飛んでいるときは、当然、平行世界でもスリットに向かって飛んでいるのです。その平行世界の数も、1つや2つではなく、干渉縞を作ることができるくらい、無数の平行世界で、一斉に同じことをしているわけですね。

 その結果、干渉して干渉縞をつくる。

 ただし、この世界の光の粒は1つしかないので、他の世界の自分自身と干渉した結果、自分がおさまるべき場所におさまって、この世界のスクリーンに光の跡を残す、という流れでどうでしょうか。


◇すべての結果を重ねる


 そうやって、過去と未来の自分自身と、平行世界の自分自身との、ありとあらゆる干渉パターンの結果を、この世界のスクリーンに描いていく。だから、その干渉縞は成るべくして成った、というか、まるでもともと予定されていたかのように、後から集積すると干渉縞になっていた、としてもおかしくないのだろう、と思いました。

 でも、可能性の数だけ「散らばった」結果が、一定のパターンになる、というのがどうもすっきりしない。だって、同じ可能性ばっかり選択することだってある得るから、「散らばる」のではなく、「集中した跡しか残さない」ということだってあっていいはずなのに。

 と思ったら、これは光の「波」ではなくて、「干渉縞」なので、可能性は関係ないですね。「過去、未来、平行世界」の干渉の「結果」による「干渉縞」なんだから、この世界の光の粒は、照射の回数を重ねれば重ねるほど、その「結果」の跡をなぞるべく、「散らばって」痕跡を残していくしかないわけですね。


◇光って不思議です


 そんな光が、今まさにパソコンから、スマホから、蛍光灯から、太陽から溢れているわけです。

 そんな光が何かにあたって反射することで、我々はそのモノを見ることができる。

 その我々が見ているモノを映し出している光の中には、もしかしたら、過去も未来も平行世界もすべてが含まれているのではないか。

 そう考えてみると、何だかとても空想が広がります。

 繰り返しになりますが、これは創作小説や作り物語や自由詩と同じようなものです。物理や数学が分かっている人が読めば、きっと1段落目からため息をついてしまうような内容なんだろうと思います。

 空想と想像の「つぎはぎ」による散文詩だと思って読んでください。

2017.4.4  him&any

©2017 him&any








 
 

 

 

コメント

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ということで成り立ちや由来からすると
正反対なんですね。

もちろん、意味も「悲しい」と「恋しい」は
反対な気がしますが、

でも、意味は似ている気がしませんか。

僕は似ている気がします。

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感情としてもとても似ている気がするんですね。

だから日本語でいう「愛」と「恋」は
決定的に違う気がします。
(英語ではたぶんどちらも「LOVE」だと思います)

恋とはたぶん悲しいものなんです。

なぜなら「恋をしている」というのは
基本的に相手と「離れている」からです。

「恋人」だって結婚している人ではないので
そのふたりは、まだ離れているわけです。法律的にも。

それに「恋しく思う」のは
その対象が自分から離れているからこそ
「恋しく」感じるのではないかなと思います。

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もう「恋」とは呼ばない気がします。

だからこそ「恋」は手に届かなくて遠くにあって
だからこそ綺麗にみえるものなのではないでしょうか。
それはそれで「恋」の良さなんだと思います。

ということで、ツイッターに書いた短詩「悲恋」

「なぜ悲しいのですか」
「まだ恋しいからです」

ということで成り立ちや由来は反対だけど
意味としては反対ではなくつながりがあるような気がする
「悲しい」と「恋しい」についての考察でした。

him&anyの曲「そっと星の色を」の歌詞も
Aメロで「行き場のない悲しみは 心の中に 残って」
と歌っていて
サビで「さよならも言わないまま また会おうねって…

CPUとメモリ(RAM)とHDDの関係は、脳神経と海馬と脳全体の関係に似ている

タイトルの通りです。思い付きです。
別に学術的な考察や実験や理論などはありません。

でも、なんとなく、そんな感じがしませんか?

【パソコン】

入力

CPUで処理
一時的にメモリ(RAM)を使用

必要なものはHDDで長期記録


【人】

刺激

脳神経を使って処理
海馬に一時的に記憶

必要なものは脳全体で記憶
(主に大脳新皮質なのかな)


この類似性って
とても不思議な感じがしませんか
僕は興味を惹かれます。

パソコンを作っている人たちが
人間の記憶方法をモデルにパソコンを作っているのか。

あるいは、無意識のうちに
人間の記憶システムをモデルにしていて
そして、いつのまにか
人間の記憶方法と同じようなシステムを
構築してしまったのか。

とても興味を惹かれます。

最近はHDDではなくSSDをメインの記憶媒体として
使用するパソコンも増えてきました。

SSDはフラッシュメモリなどと
同じような仕組みらしいので
海馬に近いのでしょうか。

HDDに書き込みをしないぶんだけ
処理時間が速くなるようです。

これって、今の人間の記憶方法にも
似ている気がしませんか?

昔は、きちんと自分で暗唱できるくらい
文章や語句の意味などを読んだり書いたりして覚えたものです。
ようするにHDDに一生懸命書きこんでいたわけです。

でも最近はスマホやパソコンで調べられるから
あまりきっちり覚えこまなくてもいい。

覚えこむことに時間をとらずに
サクサクと調べて処理して次に進むほうがスムーズ。
記録するならパソコンに入れておけばいい。
音声でもPDFでも。
なんならメモしたものがそのままクラウドに保存できて
さらにそのまま共有できて更新できますね。

そんな処理方法に変わってきている気がします。

これってつまり、
海馬部分だけ(比較的短い記憶だけ)を活用して
脳全体の記憶はデジタルに任せている

SSDだけを活用して
必要な記憶はHDDや外付け媒体などに任せている
というのと
似ている気がしませんか。

そういう感じの類似性に
何となく、興味を惹かれました。

him&anyの2018年最初のブログ記事でした。
今年もよろしくお願いいたします。

2018.1.24 him&any


©2018 him&any

光はどこに消えるのか?

光はどこに消えるのか? 不思議に思いませんか?
この文章には結論はありません。回答も考察もありません。
ただただ疑問を疑問として書いているだけです。

壁に向かって水をかければ、水は壁に当たります。
ほとんどはそのまま床に落ちて水たまりになります。
壁に染み込む水もあります。
床に落ちた水もそのうちに床にしみこんだり蒸発したりして
姿は見えなくなります。

でもそれは場所や形を変えるだけで
消えてなくなるのではありません。

床にしみこんでしまえば、水は見えなくなります。
でもそれは床の中にあるのです。
ただ見えなくなるだけです。

蒸発した水も姿を変えて見えなくなりますが
それは空気の中にあるのです。
空の高いところで雲になることもあります。
寒い冬の朝に結露として窓に現れることもあります。

では光はどこに消えるのか?

暗い部屋で懐中電灯をつけると
暗闇の中に一筋の光が浮かび、その先端は壁にぶつかります。
壁には光の丸い輪ができます。

懐中電灯を消すと部屋は真っ暗になります。
光はどこにも見当たりません。
瞬時に真っ暗になります。

光はどこに消えるのか?
壁に染み込む?床に落ちる?床に染み込む?
蒸発する?再び結露する?
そんなことはありません。
水とはまったく違うものだから。

じゃああの光の輪はなんだったのか?
暗闇の部屋の一筋の光はなんだったのか?
懐中電灯から何かが飛び出していたのではなかったのか?

そもそも光とは何なのか?
そこから考えないと答えはでません。
考えの手がかり① 光は光速というくらいとても速い。
考えの手がかり② 光は4次元(5次元?)と関係がある?
この2つの手がかりにヒントがあるのではないかと疑っています。

光速はあまりにも速すぎて見えないだけではないのか?
本当は壁にぶつかって落ちたりしみこんだり蒸発したりしているのに
あまりに速すぎて見えていないだけではないのか?
あるいは染み込む先や蒸発する先が今我々が生活している世界とは
別の次元で現象しているため
この3次元(4次元?)世界に住む我々には単に認識できていない
だけなのではないのか? なんてことを疑っています。

3次元(4次元?)などと書いているのは
今この世界が何次元なのか自分がよくわかっていないからです。
タテ、ヨコ、高さ、時間の4次元世界なのか?
時間は含めずに3次元世界なのか?…

僕は失意の中で

音楽の中に沈んでいるのだった
僕は失意の中で
それを聴くのだった
忘れていた
それは僕じゃなくて
やさしい風だった
それは僕じゃなくて
忘れていた
僕は失意の中で
音楽に沈んでいるのだった
それは僕じゃなくて
あたたかい声だった
その何かも届かないところで
沈み込んで冷たく固まっている
魂だからこそ
聴こえるのだった
僕は失意の中でいつもずっと
それは僕じゃなくて